「特権」の構図





余りに当然のことではあるが、差別はあってはならないし、ないのが当たり前である。なによりもこれが大前提だし、現代の人間ならば誰でもコトバとしては理解していることと信じたい。ユニバーサルデザインもバリアフリーも、特別な配慮ではなく、基本的な要件なのである。しかし、何を以て「差別が無い」と言うのかについては、なぜかきちんと理解されているとは思えないところがある。

かつては、「特権」を持っている人が、持っていない人を排斥するところから差別が生まれた。性別、人種、年齢、国籍、障害の有無等々により、「門前払い」を喰らわすことが差別なのである。1960年代までのアメリカでは、公共の場所は白人用と有色人種用に分けられ、白人用の施設には有色人種は入ることが許されなかった。入口のところで本人にはどうしようもない基準で足切りをされてしまう。これが差別である。

すなわち差別が無い状況とは「機会の平等」が実現していることに他ならない。少なくとも、どんな人でも参加を許されスタートラインにつけるのであれば、そこには差別はない。そして、そこから先でフェアな競争が行われているならば、何も問題はない。フェアな競争であればその先には競争があっても構わないし、その結果に優劣がついたとしても、それは結果の違いであって差別ではない。

フェアな競争であるためのルールは、スポーツに似ている。最初にルールを明確にし、そのルールをディスクロージャーしておくこと。そして、競争を始めた後でルールを変えないことである。大リーグのルールなど、極めて明確で厳しく既定されている。今でこそ日本でも大リーグ中継があるのでわかるが、大リーグのルールで「蔦に絡まったらエンタイトル・トゥーベース」というのがあったのは、リグレイスタジアムを知らない頃にはびっくりしたものだ。

人材の募集をするときに、応募条件として性別や年齢を入れることは差別である。しかし最初に求める人材の条件を明確にした上で、何の条件も付けず100人応募してきた人全員を対象に審査し、その中から職務経験や能力などに基づき1名採用するのであれば、その人が男性だったから女性差別、その人が40歳以下だったから年齢差別ということにはならない。最初から採用予定は1名と公示している相手に対し、「応募したんだから100人全員を採用しろ」と主張する方が理不尽である。

差別の撤廃とは、「機会の平等」を実現することであり「結果の平等」を押し付けることではない。大事なのはすべてにおいてフェアな環境を実現することである。しかしこれは、差別者の側も、被差別者の側も、時として勘違いしやすい。元が非対称な関係であっただけに、差別をなくすというのはその関係性を対称的にすることである。だが、これでは気分的に解決できないという人がいる。その気持ちはわかるのだが、これはもう合理的な領域ではない。

このような誤解の中で最もタチが悪いのは、差別されている側が「自分達は差別されているのだから、差別されていない人達よりも優遇しろ」と主張することである。「結果の平等」どころか、自分達の優遇まで求める人達。「お前らが特権を振りかざすなら、俺達の方にもっと特権をよこせ」というのが彼等の論理である。しかし、これでは反感を買うだけである。そもそも「差別者」とされる側も、マジメに競争している人の方が多いのだ。

このような主張は、飛躍しすぎで全く正当性がない。機会の平等が実現すれば、その時点で差別は解消している。ここで目的は達成されたのだから、そこからの競争を正々堂々と闘って勝ち残る方に努力すべきなのだ。それがフェアというものである。しかし、長年の負け犬根性から出た恨みがそうさせるのか、自らアンフェアな条件を求めだす。この瞬間から、やっていることは差別に反対する「正義の闘い」から、新たな利権を作りだし独占しようという動きに変わってしまう。

差別反対の運動は公正を求め機会の平等を求めるものである以上、「確信犯の差別者」は少数であるだけに「差別者」とされる側からも広く支持される要素を持っている。これが「社会正義」を求める運動となる所以である。だからこそ、フェアさが重要なのだ。このためには目指す先にあるものが、誰もが納得できる落としどころでなくてはいけない。しかし、新たな利権を求める動きでは、誰からも支持されない。

ここでよく使われる手は、差別解消までの運動と、利権獲得の運動とをあえてごっちゃ混ぜにし、利権獲得への反対をあたかも差別解消への抵抗のようにこじつけて相手を批判するやり方である。これは運動の目的が利権獲得になってしまっているコトを前提に、運動を行う側がそれを隠蔽するためにやっているだけに問題は大きい。このあたりは、日本社会が豊かで安定的になってからの労働組合や市民運動の手口と全く同じ構造である。

もう一度、原点に立ち戻って本当の意味での「平等」とは何かを考えるべきだ。私がいつも主張していることだが、障害の有無と才能の有無は独立した全く別の事象だ。才能のある人が障害者であるがゆえの差別により門戸を閉ざされ、チャレンジするチャンスさえ失っているとすれば、それは社会としても大きな損失である。レイ・チャールズやスティービー・ワンダーがスーパースターなのは、彼らが類稀な音楽のセンスと歌唱力を持ち、多くの人々を感動させているからであり、盲目という障害とは全く関係ないことを忘れてはならない。


(17/07/07)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる