「秀才」が支持されないワケ





私は何よりも「多様な価値観の共存」を尊重している。ことさら、「一つの正義」だけを振りかざし、他人に自分の意見を押し付ける「一神教」は許さない。多様な価値観が併存できる前提は、どんな違う意見の人間も、それを押し付けない限りは互いに尊重し合うところにある。元来日本は「八百万の神」としてあらゆるものに神が宿る多神教であり、アブラハム宗教と呼ばれる一神教圏とは違う文化を誇ってきた。

しかしそんな日本でも、現代では一つの軸上でリニアな数値の大小だけで価値評価をする「一軸文化」が跋扈している。その最たるものが「偏差値偏重主義」であろう。人間も学校も何でも、偏差値の点数という軸一本だけで評価し、単純な一次元空間の中に押し込んでしまう。そして自らのポジションがその軸のどこにプロットされるかということだけで評価される、極めて単一な価値観を生み出す。

別に、「偏差値」という数学的処理、統計的処理に問題があるわけではない。だがその数字はあくまでも「結果」である。ところが「偏差値偏重主義」はその数字を結果ではなく、「目的」として捉えてしまうのだ。この結果、その「基準の一軸」にどれだけ価値観を合わせられたかということを競うことになる。かくして偏差値に縛られて、多様性を許さないようになる。私が、秀才や偏差値エリートが許せない理由の一つは、それが「多様な価値観の否定」と表裏一体だからだ。

この点「天才」はそもそも百人百様。同じものが二つとないから天才なのである。先人のマネをしたなら、その時点で即天才ではなく「秀才」クラスターになってしまう。偏差値軸を信奉することは、偏差値軸のトップの極にあるものを「マネ=学習」することを意味する。この時点で、多様性は否定されてしまう。天才を認めることは、そもそも多様性を認めることである。知識や努力ではどうしようもないものがそこにあるのだ。

こう考えてゆくと、一軸なのが問題なのではなく、その一軸が目的化してしまうのが問題であることが浮き彫りになる。では、社会的な軸があるもののそれが目的化せず、結果の評価として機能しているものが日本社会に存在するだろうか。それ存在する。それこそ「義侠心」である。ある意味「偏差値」の対極にあるものが「義侠心」なのだ。大衆というのは少なからず「一軸」が好きなのだが、この対立する二つの軸のどちらを基準にするのかで、結果は大きく違ってくる。

「義侠心」に一つの価値観軸があることは確かである。しかし、そこで必要となるのは自らをその軸に合わせることにより達成される価値観ではない。他人の目から見た評価を求めるために努力するのではなく、自分の純粋な思いから出た行動を行い、それが結果として周囲からどう評価されるかという軸。そこには「正解」があるわけではない分、形式としては多様性を担保できることになる。

現代で「義侠心」を価値観軸とする人達といえばなんといっても「ヤクザ」であり「ヤンキー」である。「官僚・偏差値秀才」対「ヤクザ・ヤンキー」。今日本社会の構造の核になっているのが、この対立軸である。タテマエの秀才エリートと、ホンネのヤンキー。この両者が併存できたのが、昭和までの日本社会であった。この二つが併存していたからこそ、社会としてのバランスがとれていたということもできるだろう。

昭和30年代、前のオリンピックの頃までは過去の階級社会の遺構が残っており、最終的に責任を取る華族・士族の末裔という「育ちのいい人達」がいたから、「大衆」の中で成り上がろうとする秀才と、今の幸せを大事にするヤンキーと両者が共存できた。そのキャップが取れてしまうと、秀才エリートはその権力を利用して、「自分達の価値観=偏差値軸」で日本社会を埋めようとした。そしてそれは経済成長と共にある程度成功した。

こう考えてみると、警察vs暴力団の対決もその意味がよくわかる。警察官僚は偏差値軸を奉じる秀才エリートとしての自分達の権力を示しがたいため、義侠心軸を奉じる暴力団を「反社会勢力」とよび、法律を駆使してその殲滅に躍起になっているのだ。それは自分達の価値観と最も対立する存在であると共に、自分達ではとても太刀打ちできない「しなやかな強さ」を日本社会の中でもっているからである。庶民は警察の味方ではなく、ヤクザの味方なのだ。

しかし皮肉なものである。偏差値軸がある程度の社会的コンセンサスとなったのは、右肩上がりの成長がありバラ撒き行政ができたからであった。安定成長が20年続いた今となっては、偏差値軸を信奉しても、お先のないブラックな生活しかないことが誰の目にも明らかになった。その一方で義侠心軸は根強く庶民の中に息づき続け、セイタカアワダチソウに打ち勝つススキのように、在来種の強みを見せ始めた。

アンダーグラウンド経済とオーバーグラウンド経済がある社会では、最終的にはアンダーグラウンドが勝利する。それは、アンダーグラウンドの方がより強固かつ密接に、庶民の生活と結びついているからだ。そういう意味では、天才と義侠心軸が中抜きで結びついたとき、時代は次のステップに進むのであろう。こういう視点を持てば、昨今の世の中の動きが「謎」ではなく、極めて「明解」なものであることにすぐに気付くであろう。


(17/07/14)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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