代替がきくモノ、きかないモノ





これからの世の中では「それが代替のきくモノか、きかないモノか」という視点が、価値判断の基準として重要な要素となる。他のなにものを以ても代え難いかどうかが、価値を生み出す個性やオリジナリティーの証しとなるからだ。代え難いものは付加価値を持つし、代えられるものには付加価値はない。この両者の間には、歴然とした一線が引かれてしまう。そしてその間のヒエラルヒーも歴然としたものとなる。その選別は、実はもう始まっている。

その第一のステップは商品だ。売れる商品と売れない商品は、旧来のスペックで見る限りそんなに違いはない。だが、消費者にしてみれば大きく違うからこそ、片方はヒットし、片方はポシャる。代替性がない商品、それならではの強みがある商品でなくてはヒットにはつながらない。同じように見えるカップ麺や清涼飲料でも、そのブランドならではの魅力を持っているかいないかが、利益には大きく響く。これがいわゆる「付加価値」の本質だ。

たとえば純正「カップヌードル」が食べたいという欲望は、他社のカップ麺で満たされないモノであるのはもちろん、同じ日清食品の製品であるほかの「ヌードル」でも満たされない。だからこそブランドとなっている。人によっては好き嫌いはあるかもしれないが、独特の味や食感があるからこそ、支持を得ている。個性がある商品とはこういうモノだ。今の時代、ブランド・マネジメントの原点もここだ。こういう個性があって、ブランドができる。これがなくては、価格破壊の安売りしかない。

第二のステップは企業だ。商品自体が代替のきかない個性で評価されるようになった。そうならば、代替性のない商品を提供できるかどうかで、企業自体の代替性も問われることになる。商品の個性が企業の個性。ロゴを外したらどこの製品かわからなくなる商品ではなく、商品そのものが強烈な主張を持つ。これこそまさに企業文化そのものだ。個性的な企業風土がなければ、個性的な商品は生まれない。総合電機メーカーが皆リストラを強いられているのもこのせいだ。彼らは確かに技術だけはあるものの、商品としては他社と同じようなモノしか作れなかったからだ。

そう考えると、総合電機メーカーの中でも実力差があることがわかる。その会社でしかできないデバイスでもいいし、その会社でしかできない発電機でも、その会社でしかできない鉄道車両でもいい。それを創り出せる個性があるところはたぶんリストラに成功するだろう。それがないところは、リストラ以前に企業風土の転換が必須だ。ルノーの出資をあおいだ日産の弱みもここだった。日産の中で他社の代替がきかない車種はGT-Rぐらいのもの。しかし、そのGT-RとてRE雨宮みたいなチューナーや、アルピナのような改造車メーカーならイザ知らず、大企業の屋台骨となるクルマではない。

第三のステップは人だ。人の代替性という問題には、二つの面がある。最初のポイントはシステムやネットワークとの代替性だ。すでにバブル前から、帳票管理や窓口業務といった定型作業はシステム化され、それまで人手をかけてやっていた作業も、機械で処理するのが当たり前になった。企業や組織で人間が手間をかけてやっている作業の多くが、必ずしも人間が直接やるべきことや、人間がやることによって付加価値が高まることではないのは常識になっている。社会の情報化、ネットワーク化により、その範囲が広がる。

それは「知識」の分野に現れる。いまや知識がいくらあっても、人間の蓄積量や検索性、処理速度では、ネットワーク化したコンピュータにはかなわない。実はこういう作業は、構造的にはいわば帳簿つけや倉庫の入出庫管理と同じ。中身が商品情報や会計情報の代りに、学問的なデータや情報だというだけの違いでしかない。ということは、この作業自体何も付加価値を生み出してはいない。学者や官僚には、こういうレベルの仕事しかしていない存在が多い。定型処理をしていた管理部門の人員と同じように、リストラされて当然だ。

最後のステップは人の代替性の中でも、人同士の代替性というポイントだ。その人が持つオリジナリティーがどれだけあるか。あればあるほど、文字通り「余人を持って代え難い」存在となる。誰がやっても「やれればいい」作業なら、その人に頼む必然性はない。いちばん安いヤツに頼めばいい。その人ならではの個性、他の人では代替できない個性があるからこそ、誰あろう特定の個人に頼む。その人しかできないからこそ、付加価値が高いし、イザ必要となればダンピングされることもない。

その人がリストラの対象になるかどうかのカギはここにある。代替性のある人間は、付加価値の源泉として必要だ。代替性がないこと。ワン・アンド・オンリーであること。これがこれからの時代、付加価値を生むからだ。その組織でハマるかどうかという問題はあるが、そういう人間なら社会的には必ず評価され、どこかで必要とされる。付加価値を生むものには居場所がある。だが付加価値を生まないものには居場所がない。より安い相手にアウトソーシングしてしまえばいいからだ。

けっきょくはカンタンな話だ。きちんと人類社会に対する自分の強みを持ってきた人なら、なんら問題はない。だがいままで自分の強み、自分ならではの付加価値を磨く努力をしないできたヒトには、リストラはこたえるかもしれない。しかしそれは、いままでズルしてきたことの因果応報だ。過去の構造変革やリストラ、民営化などはみなこのせめぎ合いだった。しがみつけば負け。しかし発想を転換すればチャンスは大きい。すべては過去の自分から脱皮できるかにかかっている。


(99/07/16)



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