官僚の本質





経営学・組織論の大御所野中郁次郎先生には「失敗の本質」という名著がある。その内容は日本人論としても深いものがあるが、筆者にとっての結論を一言でいえば「昭和になってから帝国軍人で出世した人間は、その実態は軍人ではなく偏差値エリートの官僚であり、太平洋戦争は政治家や軍人ではなく官僚が仕切った戦争だったからこそ、負けるべくして負けたし、その被害も甚大なものになった」ということになる。

では官僚の特徴は何か。その第一のキーワードは「無責任」である。「甘え・無責任」こそ、官僚の全ての行動の基本原理である。一連の作業のあらゆるステップで、逃げ場と言い訳をビルトインし、もしも何が起こっても自分の責任は問われないようにする。肩書き主義とたらい回しで、組織のダンジョンの中でどこの誰に責任があるのかわからないようにする。官僚のマニュアルとは、そく責任の曖昧化のマニュアルである。

次なるキーワードは「部分最適」である。あらゆる局面に於て、自分、もしくは自分の所属する小集団の利益の最大化を図る。具体的には、大きな組織内での得点を稼いだり、自分達の権限を拡大したり、利権を最大限に確保したりできることを最優先に考えるのだ。このため本来の官僚機構の目的である「天下の公僕」は、まったくタテマエだけのお題目、自分達の悪行をカムフラージュし隠蔽するための手段でしかなくなっている。

3つ目のキーワードは「我田引水」である。運用主義、解釈主義もまた現代日本の官僚制を特徴づけている。最初の法律には総論しか決めず、「法律にダメと書いていないから問題ない」として、どんどんお手盛りで運用してゆくやり方こそ、官僚の権限の源泉である。ここにはガバナンスもコンプライアンスもない。逆に言えば、法治主義に見せかけた人治主義を求めているのは、官僚自身なのだ。

実は、ここ一連の政治問題とそれと対を成す「安倍叩き」は、実は一続きになった官僚のマッチポンプの結果だ。これこそ官僚の行動原理が良くわかる事例である。実はこの問題は見える人には見えてきたように、永田町の問題ではなく、霞が関の問題なのだ。政治問題として見せることによって一番得をしているのは誰か。そういう目で見て行けば、一連の「事件」を裏で演出している存在があり、それもまた官僚達であることはすぐにわかるはずだ。

安倍内閣は「官邸主導」を確立し、霞が関の主流派とは対立するように見えていた。しかし、それはあくまでも一見そう見えただけである。元来、実際にはあまり政治的主張は強くなく「いい人」である安倍首相は、官僚達からすると極めて組し易い相手だった。この点については、第二次安倍内閣の就任時から主張してきたところである。このナゾを解くには、官僚達の中でも霞が関の主流派とは対立する人達がいることを理解する必要がある。

そのカギこそ、官僚達にはつきものの「派閥争い」である。官僚は部分最適な生き物であるからこそ、大きく群れることはできない。○○閥とか○○スクールとか、それぞれの部門ごとの人間関係を元に、強固な利害集団を作る。そしてその集団同士の合従連衡が、全体のダイナミズムを生み出すと同時に、その「数の論理」が大きな流れとしての「主流派」と「反主流派」を創り出すことになる。

安倍さんは、一言でいえば「反主流派」の官僚達に担がれたということである。「反主流派」が欲しかったのは、自分達の意のままにコントロールできる「紋所」である。安倍印の印籠を振りかざすことで、「反主流派」が「主流派」に対し思う存分「意趣返し」をすることができる。そのための方便が「アベノミクス」だったり「規制緩和」だったりしたのだ。だからここで行われている改革は、表面的なものにしかなり得ない。

加計問題の本質は、少なくとも文科省と内閣府の権限・利権争いであるところまでは明らかになった。ここで大切なのは、陸大恩師組のようにその実態は軍人ではなく官僚でしかなかった帝国軍隊の将官たちが、自分達の責任を本来憲法上政治的責任を取り得ない天皇陛下に押し付けるスキームを内在していたように、最終的には自分達の悪行を安倍首相以下政治家の責任に転嫁してしまうことを、最初から仕組んでいた点である。

「安倍叩き」をたきつければ、「官僚叩き」は免れることができる。「安倍叩き」によって一番利益を得るのは誰なのか。それは、全ての責任を回避し逃げを打つことができる官僚達である。この事実に気付いてか気付かなくてか、その先棒を担ぎ走狗となり下がっている野党やマスコミは、いちばん哀れである。もちろん、そのような官僚の暴走を許した責任は政治の側にもある。しかし、官僚という存在自体が現代の日本においてはすでに「悪」なのだから、そちらに先に気付く必要がある。

ちょっと前に問題になった「テロ等準備罪」法案も同じだ。こんなものがあろうとなかろうと、政治家にとってはメリットもデメリットもない。これで最大のメリットを得るのは誰か。それは警察官僚である。彼らの権限強化という意味では、暴対法などと同様こんなにおいしい法案はない。権限強化は、それをちらつかせることにより利権強化にもつながる。こういう権限は、官僚は欲しがるが、政治が必要とするものではないのだ。

もっというと「戦前への流れ」批判のようなムードを必要としているのも、実は官僚である。日本の官僚制度は「40年体制」と呼ばれるように、戦時中に構築された戦時体制そのものが温存されている。これが官僚の権限の根源なのだ。しかし、この構造があらわになるのが一番困る。だからこそ、自分達は戦後民主主義の申し子のような顔をするために、実は見当はずれな「戦前批判」が必要になる。これも責任を躱して転嫁する技である。

もう官僚はいらない。秀才はいらない。事務管理についてはAIによるIT化と、ヒューマンサービスの民営化。官庁の実務はこれで済んでしまう。「大きな政府」がいかに大きな無駄を生み出し、国家のリソースを踏みにじるものか、真剣に考えるべきである。もしこれから日本という国が破綻するとするならば、それは偏差値エリートの官僚に権限を与えたからである。官僚に権限を与えて起こる不幸は、敗戦で経験しているはずだ。偏差値エリートに二度も日本を破壊させるな。


(17/08/11)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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