ハダカの王様





よく勉強して試験でいい点を取ることや偏差値が高いことが、己の力で道を拓いて世の中を生きてゆく上では全く意味をなさないという認識が、だんだん日本社会でも広がってきている。社会の情報化が進みAIの実用化が目に見えてきたことも大きいが、そもそも秀才が必要とされたのは、ベンチマークがあり「追い付き追い越せ」で凌げた高度成長期固有の現象である。バブル崩壊とともに破綻した高度成長の夢の残渣が、ここに至って全て消えてしまったことがその最大の理由である。

官僚制が代表的だが、秀才エリートは「自分がその構成部品となれる社会システム」が機能していてはじめてパフォーマンスを上げられる、極めて組織依存的な存在なのである。「個」としての存在感は極めてひ弱である。これは組織や肩書に隠れて個の存在を消し、自分自身が人間としての責任を取らなくていい構造を作る上でも功を奏した。しかし、こういう無責任で腹をくくれない人間に、生命力や生活力があるとはとても思えない。右肩上がりだったから、こういう連中に任せられたというだけである。

かつては「秀才」に分類されていた連中の中にも、それなりに地アタマのいい人材もいた。しかし90年代以降、こういう人材はその地アタマの良さゆえ「偏差値エリートコース」には乗らなくなってしまった。まかり間違って中高は進学校に入ったとしても、海外の大学に進み自分でベンチャーを創業する。その先の希望のない「日本国内の高偏差値大学」には進まない。これとともに、国内では名門大学と呼ばれるところも、マジメにきちんと勉強すれば確実に入学できるような存在になった。

こうなるとバッドサイクルである。マジメに勉強して点数を取ることしかできない人ばかりになっては、エネルギーもクリエーティビティーも生まれてこない。秀才はいわば化石燃料であり、エネルギーを発しているように見えても古典的なエネルギー保存則の範囲内。エントロピーはひたすら増大しているだけである。天才は核エネルギーのような、古典物理学的には無から有を生み出す「秘術」を持っている。内に秘められたエネルギーが無限大なのだ。

ここまでその「絵に描いた餅」が明確になると、秀才の末路はあわれなものである。人徳がない分、誰も言うことを聞かないし、誰もついてこない。そこで、利権をバラ撒き人を集めようとすることになる。それでも税収入がある間は、他人の財布でバラ撒けるし、そこに群がる人もそれなりにいる。しかし、もはや中央も地方も左団扇で税収入があるような経済状態ではない。人間、金の切れ目が縁の切れ目。バラ撒く金がなくなれば、役人をちやほやする人などいなくなる。

これは、もう秀才の構造的な問題である。彼らはタテマエとホンネのスキ間に、屁理屈で正当化できる世界で自分達の利権を作る。ここで問題なのは、あくまでも法律や制度といったタテマエの方に彼等の拠り所を置かざるを得ない点である。しかし、そこに問題があるとは思わず、自分達の組立てた複雑な制度で目をくらますことができ、それが自分だけが発見したブルーオーシャンと思うところが、秀才の思い上がりなのだ。

いわゆる庶民の方が、中国四千年の歴史ではないが「上に政策あれば、下に対策ありで」、イザとなればお上がどんな手を打ってこようと、現場ならではの「フットワークの良さ」を活かして乗り切ってしまう。お上は権力はあるが小回りが利かない。懐かしい「トムとジェリー」のアニメよろしく、ちょこまかと逃げ回る庶民を動きの鈍いお上はいつまでたっても捕まえられない。それどころか、その対応の悪さをおちょくられる始末である。

庶民は体感的にこの構造がわかっているが、知識でしか理解できないからこそこれを知らないのが秀才である。秀才の多くが庶民出身である割には、勉強ばっかりして生活感がないと共に、自分は庶民と違うんだという妙な選民意識があるから、庶民の生活の知恵を知らない。そのわりに、自分達こそ庶民の代表だと思っている。自分達の利権の追求でしかないことも、世のため、社会のため、人々のためと思い込んでしまうから恐いのだ。

もはや誰も「エリート官僚」など支持していないし信じていないのだが、それを理解しようともしない。それどころか未だにタテマエを主張すればするほど、自分達の利権が増えると思ってる。しかし、そんな時代ではない。タテマエを大手に振って正当性を主張すればするほど、みんなは後ろに引く。面従腹背で、実態としては「官」からは見えないアンダーグラウンドが大きくなるだけである。気が付くと、誰もついてこない。すでに「偏差値エリート」はハダカの王様なのだ。


(17/09/01)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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