本末転倒





「反核運動」というのが日本では根強い。核兵器廃絶という主張自体は、世界平和を願う上では重要だしかなりの支持者がいる。もう一段レベルの高い主張である反戦運動・平和運動も同様だ。しかし、グローバルな反戦運動の動向などと見比べると、日本におけるこの手の運動には強い違和感を感じてしまう。確かに過去に於てこれらの運動は、「左翼」や「革新政党」と結びついてきた。しかし、それだから気分が悪いというのではない。

日本におけるこの手の運動は、そのほとんどが最初から理性的な思考を停止し、ひたすらお題目を唱えることでトランス状態に没入する精神運動・宗教化している。その点が気持ち悪いし、恐ろしいのである。しかし、そうだからこそ一定の支持者がいることも確かだ。だがこのような「カルト宗教的なノリ」にはついていけない人の方が多いだろう。ほとんど「反核壺」や「反核聖水」を売っているのと同じである。

理性的に平和を求める気持ちを持っている人々にとっては、この「思考停止」を強要するスキームがなにより恐ろしいのである。そもそもロジカルに核兵器を持つメリットやベネフィットとデメリットやリスクを比較してみれば、一部の「失うものがないボトムライン国」以外は、現状の国際社会を前提とする限り核兵器を持つ意味はほとんどない。こんなことはちょっと頭のいい中学生でもすぐに思考実験できる。

そういう意味では、核兵器廃絶のために一番重要なのは、核武装の是否を論理的に比較する理性的精神である。が、宗教である日本の「反核運動」は理性を否定する精神運動であり、核の「か」の字を口にすることから全否定する。核武装の意味がないことを論理的に論証しようと思っても、これでは不可能である。この発想は、論理や思考を停止することで正当化するという意味で「一億火の玉」や「八紘一宇」と全く同じである。左翼と戦時下の翼賛体制とは、実は相似形の内ゲバなのだ。

本来、世界平和を求めるのならば、核兵器だけをことさら特別扱いするのではなく「戦略兵器による無差別殺戮禁止」という主張にすべきである。こういう主張なら意味はよく分かるし、思想信条を問わず支持を集めやすいだろう。欧米の平和運動には、イデオロギーから切り離され、このようなロジカルな主張に基づいているものもある。戦術と戦略の違いが分かっていれば、このような考え方は当然であろう。

無垢な市民を殺傷することは、戦争の勝負とは違う。戦争の持つ本来の政治的意味とも違う。単に報復戦であり、政治的には無意味な殺生である。当然、本来の軍事的意味から考えても、そういう武力行使は避けるべきである。20世紀に主力だった兵器では、相手の生産力や軍事力の破壊を目指していても、とばっちりで一般市民にも大量の被害が発生してしまった。そのイメージが付きまとっているが、もともと市民の殺戮が第一義の目的だったわけではない。

国家間の戦争の戦略的な目標は、勝った国が負けた国をいわば「M&A」して、負けた国のリソースを我が物にすることにある。すべてを破壊して荒野にしてしまったのでは、戦争に投入したコストを回収できない。まあ、戦略的発想ができない日本人の考え方では、相手をぶち殺すこと自体が目的になってしまいがちだが、それは世界基準から外れた極めて独善的で危険な発想である。だが、これがわかっていない人が多いのが現実である。

「戦略兵器による無差別殺戮禁止」は、「核兵器禁止」とは全く違う。「核兵器禁止」は、単に兵器の技術だけの問題だ。一般兵器の技術でも、大量虐殺兵器を製作することは容易である。逆に核分裂反応のエネルギーを利用しても、敵の前線部隊の陣地だけを破壊する小型の戦術用核兵器を作ることは可能である。すでに、このどちらの兵器も多くの種類が開発されている。まさに、持っているが使わないからこそ「戦略」兵器なのであり、行使することを前提とした戦術兵器とは違う。

通常爆弾でも、どんな兵器でも、戦略攻撃で一般市民を傷つけることがいけないのではないのか。平和運動とはそういうものではないのか。兵器の種類ではない。攻撃の対象と種類が問題なのだ。思考停止に陥っている「反核運動家」は、こんな事実にも気が付かないのだ。自分がオピニオンを主張しようとしているのに、議論もできないし、説得もできない。頭がおかしいとしか言いようがない。ここが、日本で左翼リベラル反戦派が支持されない理由でもある。

なぜ、こういう勘違いが起こるのか。それは日本人は戦略と戦術の違いがわかっていない人ばかりだというところにある。戦略と戦術の違いは、目標を自分が腹をくくって責任を取って決めるのか、外在的に与えられた目標に向かって進むのかというところにある。日本人の多くは責任を取ることがないから、この違いがわからない。それは庶民が無責任で平和な生活を過ごせた江戸時代以来、数百年に渡り脈々と受け継がれたものだが、ここでも発揮されている。

昨今問題になっている北朝鮮の脅威への対応も、同じような構造的問題を含んでいる。日本の政治家や官僚の多くより、北朝鮮の金正恩書記長の方がよほど戦略ということをわかっている。目的がはっきりと決めて、そのために手段を選ぶのが戦略である。北朝鮮の金王朝の目的は、なにより自国・自政権の存続である。核兵器開発も、ミサイル開発も、トークバトルも、全てそのための手段である。

これがわかっているかいないかで、対応は全く違ってくる。だが金王朝が、日本人のように無責任で戦略と戦術の区別がついていないと思っているから、きちんとした対応ができていないのだ。戦略には戦略で対応するしかない。戦略を決定できず戦術しか持たない日本が、戦略に戦術で対抗しようとしてもいいカモにしかならない。トークバトルは所詮戦術である。それに踊らされたのでは相手の思う壺だ。

経済的・軍事的な圧力だけでも解決にならず、話し合いだけでも解決にならない。戦略的視点からこの二つの力をウマくコントロールし、落としどころにソフトランディングさせる。これができてこそ「大国」である。大国とは、グローバルレベルの戦略を立案でき、実現できる国ということである。そうなると、それができるのはやはり米・中・露しかないのだろう。それを理解することも、戦略の第一歩なのだが。


(17/10/13)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる