犬の躾





世の中には犬を躾られない人や家族が結構存在する。飼い犬が誰の言うことも聞かなくなり、手に負えなくなっている人も多い。その一方で、そういう犬を躾ける専門の訓練士がビジネスになっている。その訓練はそう大変なものではなく、犬の本能を上手く利用して、たちどころに言うことを聞くようにしてしまうという。犬自体は「ご主人様」の言うことは聞く本能は持っているが、飼い主を「ご主人様」と認識していないから言うことを聞かないだけなのだ。

この訓練はどうするのか。まず訓練士は、犬に自分が「ご主人様」であることを認識させる。これは、一般の犬の訓練と同じである。犬が訓練士の命令を聞くようになったら、次に犬の前で飼い主が訓練士の「ご主人様」であるような演技をして見せる。飼い主が訓練士に「命令」して、それを訓練士がきちんとやる姿を、犬の前で見せるのである。すると、自分の「ご主人様」である訓練士の「ご主人様」である飼い主の言うことを聞くようになる。

犬は、犬同士であろうと人対犬であろうと、極めて単純な関係認識をする。それは「相手は自分より偉いか偉くないか」という、シンプルな1軸のヒエラルヒーになっている。自分より偉い相手には、あっさり従う。その反面、自分より偉くない相手には強く出て、言うことは全く聞かない。単純明快な行動様式だが、これが犬の本能なのだ。だから、自分の方が優位に立てば、犬は必ず言うことを聞く。犬の訓練とは、犬に自分の方が偉いことを教え込むことである。

これは私にも経験がある。未就学児童の子供の頃は、大きい犬が恐かった。親戚の家で大きな犬を飼っていたが、近寄らないようにしていた。リードというか、当時は鎖でつながれていたが、自分の体より大きい犬の存在感は子供には大迫力過ぎたのだ。しかし小学校に入った頃、怖がらずに睨みつけて退かなければ犬は必ずおとなしくなることに気付いた。まず、鎖で届かないところから始めて、段々近くで睨めっこ。そのうち撫でても大丈夫になった。

こういう問題が起きる理由として、犬の逆で、ヒエラルヒーや上下関係に対して、極めて鈍感というか無頓着というか、感受性が鈍い人間が日本人には多いことがあげられる。あるいは、関係はわかっていても、それに対して適切な関係性を態度として示せない人も多い。自分が偉いことをきちんと犬に示せない人だから、犬がなつかない。命令や指示をすると、周りの人がきちんと動いてついてくる。これをきっちり見せることが、犬にも分ける「偉さ」である。

日本には、偉くなると、すぐ勘違いをして威張ったり怒鳴ったりする人が多い。威張ったり怒鳴ったりするのは決してヒエラルヒーが上であることを示す行動ではない。権威主義で虚勢を張っているだけであり、あくまでも人間の社会構造を前提として現われてきた態度である。それでは人間社会の構成員ではない犬に通じるわけがない。では、なぜこういう勘違いが起こったのだろうか。

大家族・共同体で育った人は、ヒエラルヒー感がないし、ヒエラルヒーを認識できない。極端に人口の多い「団塊世代」が、「大家族・共同体型家族リテラシー」しか持たないまま核家族を形成してしまったため、そこで生まれ育った「団塊Jr.世代」もまた「大家族・共同体型家族リテラシー」しか持っていない。日本人の2大人口ボリュームゾーンがそうである以上、全体としては圧倒的にヒエラルヒー感がないし、ヒエラルヒーを認識できない人が多数を占めることになる。

そしてこういうヒエラルヒー音痴は、特に男性に多く見られる。日本の大家族は、農村においては基本的に母系大家族であった。母親が偉いのは間違いない。これは核家族になってからも受け継がれている。だからお母さんや娘の言うことは、犬は良く聞く。そしてお父さんが家庭内で居場所がないのをよく見ている。仕方なく、お父さんが犬を散歩に連れて行くと、言うこと聞かない。当たり前だ。家庭内では、お父さんより犬の方がヒエラルヒーが上だとちゃんと知っているからだ。

こういうヒエラルヒー音痴の男性が集まって形成した、高度成長期の日本型経営の企業では、本来のリーダーシップという意味での「偉さ」は創業企業のファウンダーなどを除いては認められず、そのかわり終身雇用に基づく年功序列という擬制ヒエラルヒーが横行した。誰でも長く椅子に座っていれば地位も給料も上がる。それは「お猿の電車」のようなものであり、右肩上がりの風に乗っていれば左団扇で売り上げが上昇した高度成長期ならではの現象である。

ヒエラルヒーが認識できないというのは、ある種の「差」があってもそれを認知できないことを意味する。その結果起こるのが幻想的共産主義ともいえる「悪平等意識」である。「皆横並びだし、横並びでいれば恐くない」ことへの願望が、「横並びでなくてはいけない」に繋がり、最終的には「出る杭は打たれる」社会を生み出す。まさに日本の宿命的悪癖ともいえる悪平等願望の源泉こそ、団塊世代に刷りこまれている「大家族・共同体型家族リテラシー」なのである。


(17/10/20)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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