イライラさせる人





「クルマで煽られた」という事件が問題になっているが、私が免許を取った1970年代には、そんなのは当たり前。タラタラ走っていたら、煽られて喧嘩を売られるのは常識であった。だからこそ「俺を怒らせるなよ」とばかりに、切れる人は「切れるぞ」というのが誰にでもわかる運転をしていたし、そういうクルマがくれば一般人は無条件に道を譲るのだった。当時免許を持っていた人は、誰しもそういう注意を払いながら運転していたのだ。

中にはチンピラ対ヤクザの顔役ではないが、強面の相手を煽ってボコボコにされることもしばしば起こった。こういうプロセスを通して、自意識過剰の思い上がり野郎は、ストリートで鍛えられて「強い者の間の秩序」を学ぶのであった。だからこそ、一般人は「譲る」ことで「自分は彼らとは別の世界の住人」ということを示すし、きちんと「強い」者は、「カタギには迷惑はかけない」というルールを守ることができる。

別にこれは車の運転に限らない。当時は街で誰かと視線が合うと、「ガン付けたな」と喧嘩を売られるのは当たり前である。繁華街を歩けば、いつ喧嘩を売られるかわからない。盛り場を歩くときは、かなりの緊張感をもって周囲にセンサーのアンテナを張るのがマナーであり常識だった。ちょっとボケーっとしていヤツがいると、たちまちカツアゲに合ってしまう。学校でも「ちょっと体育館の裏まで来い」ということになる。

視線が合えば「ガン付けた」と言われるし、逆に相手の肩が触れたら先に「何だこのヤロー」と吹っかけなくては足元を見られる。社会で生きてゆくには、常に緊張感がなくてはならなかったのだ。とはいえ、皆そういう環境に適応し、ウマく世渡りしていた。70年代までは、日本社会ではそれが常識だったのだ。他人は喧嘩を売ってくるもの、隙あらば殴りつけてくるものなのだ。喧嘩を売られない社会の方が、よほど平和ボケで能天気である。

もちろんこのルールがわからなかった人達は、その時代から存在した。空気を読まない人。相手に甘えて緊張感がない人。こういう連中は、カモにされ、ボコボコにされる。いわば新幹線の立ち入り禁止の金網の中に何も考えずに入り込んでしまう人達だ。さらに困ったことには、こういう連中はボコボコにされても、なんで自分がボコボコにされるのか全く分からない。こういう人は、周りの人間をイライラさせる。社会性という意味では、許すべからざる存在だ。

しかし、最近はこういう迷惑な甘え野郎がメチャクチャ増えている。日本が豊かな国になってからは、日常生活が平和で安定的になったためか、最近はこういう気配りをせずにのほほんと生きている人が増えてきたのだ。周りのこと、他の人達のことを何も考慮せず、無責任に自分のことだけを考えて、自分勝手に生きている。VRではないが、自分の周りの社会という存在が、まるでヴァーチャルなイメージであるかのような傍若無人な振る舞いだ。

70年代までのような、リスクに溢れた環境の中で育てば、相手に対する防衛意識が生まれる。いわば「生活の知恵」である。皆が皆それをマスターしていた。だからこそ、社会が円滑かつ安定的に回っていたのだ。それはそんなに難しいことではない。「強そうな相手に出会ったら、最初からひれ伏すか、逃げるか」というだけ、このどちらかである。ガチで正面からぶつかることなどありえないし、そうしている限り自分の身に災難は降りかからない。

最近の問題は、こういう「社会の潤滑油」に気を使わない若者が増えすぎている点にある。スマホを使っていなくても、平気でぶつかってくる。肩が触れても気にしない。それで何も起こらなかったりするのだから、これはどうかしている。グローバルに考えれば、こういう「社会の潤滑油」に気を配らずに生きて行ける社会はほとんどない。海外の人から「日本は平和だ」と驚かれるのは、こういう理由なのだ。

空気が読めないことは、実は命にかかわる問題である。1950年代とか、まだ貧しく戦後のすさんだ雰囲気が充満していた頃には、単なる脅しやイジメのレベルを越えて、カツアゲから強盗殺人に至るケースも多かった。ある意味空気を読めないまま社会に出るのは、無免許でクルマを運転するのと同じである。それを最近は、「発達障害だ」「コミュ障だ」と自ら主張することで正当化してしまうことさえ行われている。

こういう世界を知らないのは40以下の若い世代だけである。50代以上なら、少なくとも学生時代は「カツアゲ」に合わないように気を配ってきた記憶があると思うし、そのためのノウハウもわかっているだろう。逆に70歳以上の老人は、「俺のモノは俺のモノ、他人のモノも俺のモノ」という力の争いで生き残りを競った、戦後の貧しい時代を生き抜いてきた人達である。だからこそ歳とともにボケてきて理性が働かなくなると、すぐにキれて暴力沙汰を起こすことも多いのだ。

こういう連中も社会問題化しているが、対抗策というかこなし方を知っていれば、充分躱せるのである。そういう問題も含めて、「社会の潤滑油」への配慮が足りなくなっているからこそ引き起こされているということができる。「社会の潤滑油」への配慮が足りない人は、すぐにわかる。それは「配慮ができる人」からみると、「イライラさせる人」として見えるからだ。相手が悪いのではない。配慮が足りない自分が悪いのだ。誰かから怒られたらそのくらいの気遣いをするマナーはわきまえていただきたい。それが人類のグローバル・スタンダードなのだから。


(17/11/17)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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