改革とは何か





「画一性と悪平等に死を」は故香山健一先生が、臨教審委員の時に残した名言である。結局日本の教育政策は、激しく対立するように見える文部省と日教組が、実は裏で「学校利権」を死守するという一点に於て一致し、そのための方便として悪平等な教育政策を左右に振らせることで、さも改革を行っているように見せかけ、利権構造をブラックボックスの中に隠してしまおうとした構造であったことを赤裸々に暴いた一言と言える。

保守と革新が対立しているようでももたれ合い、その中で官僚のバラ撒きを間に挟むことで、「三方一両得」な関係を築いたのが55年体制の本質である。高度成長も末期になり、単にバラ撒くだけでは黄金のトライアングルが成り立たなくなったときに登場したのが田中角栄氏である。野党の主張する新たなバラ撒きを、そのための公益法人を作り天下りの椅子を作ることで利権とし、黄金のトライアングルを拡げることで昭和40年代に田中派黄金時代を築いた。

日本の左翼・革新政党は、この時代に骨抜きにされ、単にバラ撒きの受け皿になった。いわば、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」が、組織により弩太い蜘蛛の糸になったようなもの。たくさんの人がぶるさがっても、切れることがなくバラ撒きに預かれるようになった。組合運動などその典型的な例である。70年代以降、組合は特権集団となった。それは00年以降、労働組合が露骨に既得権擁護の集団となり、終身雇用時代の社員の利権を守る組織となったことがよく示している。

マルクスの哲学の神髄は、決して「バラ撒き」ではない。権力による富の再配分でもない。搾取の否定、すなわち「自分が作り出した価値は、それを作り出した本人に帰属する」ということだけである。そういう意味では逆であり、「自分で頑張れば、頑張った分だけリターンは多くなる」という思想なのである。それがエンゲルス以降の政治家達により政策の理論的支柱に換骨奪胎されてしまったのだ。

大多数の国民が貧しく飢えている国においては、国民にメシを食わせることで圧倒的な支持を得ることができる。そして、そういう貧しい諸国で権力の座を狙っている政治家にとっては、社会主義という錦の御旗は、極めて有効な政治的理論であった。ここに社会主義・共産主義は、ヴィジョナリーな哲学だった時代の理想から離れ、貧しい諸国で権力を狙う人達の政権奪取の道具となったのだ。

本来の考え方から言えば、社会主義といえども「天は自ら救うものを救う」のである。マルクスの思想からみれば、「自ら価値を生み出している人には、本質的に貧しい人はいない」ということになる。実は搾取している方が「バラ撒き」に預かっているのであり、貧しい人々が権力からバラ撒いて貰おうという考え方はどこにもなかったはずである。そのような考え方は、今でも充分活きている。

人間は生きてゆくためには、セルフヘルプ、すなわち自助努力を怠ることなく続けなくてはいけない。他人頼みでは生きてゆけないのだ。これは同時に「自己責任」を貫いて生きることを意味する。他人や社会に甘えず、自分で道を切り拓く。その代り、そこから得られる果実は自分で独占することができる。まさに「働かざる者食うべからず」。バラ撒きに期待して、それにすがって生きることを厳しく戒めているのだ。

もっとも、照葉樹林帯や熱帯樹林に属するエリアの多い極東アジアでは、土地の生産力が極めて高いため、植物にしろ動物にしろ自然の実りが豊かである。狩猟生活でも農耕生活でも、乾燥地域や寒冷地域に比べると、それほど努力せず喰っていける。同時に余剰生産物も蓄積される。ここから「現世御利益」を追求する、甘えの精神が生まれる。日本の革新勢力の甘え好きは、この二重のルーツがあるのだ。

今の日本に求められる改革とは、この甘えの精神を自己否定し、自己責任で自助努力を行うことである。甘えのある人間には改革はできない。自立した個を持っている者だけが、甘えを否定し、改革を行うことができる。甘え・無責任が許されたのは、産業社会の弊害である。AIの進歩とともに、組織にすがり甘えて生きている人々の仕事は機械と置き換えられるであろう。これからのグローバル社会で日本人が生き残っていくためにも、改革は必須なのである。


(17/12/01)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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