55年体制の亡霊





史上最低の日本国首相といえば、菅直人首相というのは衆目の一致するところだろう。彼が首相でなければ、大地震もなかったし、原発事故もなかったのではないかという声もあるが、まあそれは偶然の一致であろう。しかし、確かにあんな人間を首相にしてしまった天罰というものはあるかもしれない。野党系の首相ということでは旧社会党出身の村山首相もいた。しかし彼は戦後政治史に名を残す存在であり、その存在感は大いに違う。一体何が違うのかを考えてみよう。

村山首相は、社会党出身とはいえ、自民党と連立を組み、その支持を受けて成立した。55年体制という自民党と社会党が対立するようなふりをして、その実、同じ利権を互いに支え合った政治のコトワリをベースに、その構造を水面上に露出させたような「自社さきがけ連立」という体制を組んだ。それはある意味55年体制の最後の華であったといえよう。そういう意味ではその前の細川政権、羽田政権とは異なり、55年体制の「王政復古」ということもできる。

55年体制という、対立しているふりをすればするほどおいしい思いができるスキームは、高度成長期だからこそできたものである。右肩上がりの経済で追い風が吹いている時代は、レボ払いのクレジットよろしく、将来の収入増で「獲らぬ狸の皮算用」ができた。税収がなくてもバラ撒けるし、バラ撒いても後付けで帳尻を合わすことができた。この時代は、偽装の対立を煽ることが、利権をさらに拡大することに繋がった。

55年体制をもっとも利用したのは、田中角栄氏であり、その手法を受け継いだ田中派である。そのキーワードは、保守政権、官僚、野党の三すくみを装ったもたれ合いである。官僚は40年体制でもともと左翼勢力、社会主義的な政策と親和性が高い。そして野党は組合の権益代表として「バラ撒いて欲しい」人達である。そしてエスタブリッシュではなかった田中角栄氏は「庶民の味方」として社会主義的なバラ撒き政策に理解があった。

元々官僚は自分達の利権を守るために、政権に摺り寄る。従って、政権→官僚という関係である。官僚はバラ撒く利権をもっているので、バラ撒いて欲しい野党勢力からすると垂涎の存在である。従って、官僚→野党という関係である。その上で選挙の時には野党は組合という組織票を持っているので、中選挙区だった昭和の選挙では、保守政権にとっては目の上のたんこぶであり、彼らをいかに懐柔するかが政権運営上のポイントとなっていた。従って、野党→政権という関係になる。

こういう三すくみの関係になっているからこそ、「三方一両得」の関係を作れれば圧倒的に安定する。このように「同じ穴の貉」だった人々が、成り行き上相対立する立場に置かれているだけだったのだ。それだけに裏で共同の利害のために手を握りあうことは容易であった。さらに互いに強み・弱みを握りあっている関係でもあった。それが55年体制であった。

それをさらに盤石にしたのが、田中角栄氏のウマいところだ。官僚の中で山っ気のある人材を、積極的に政治家として登用し、田中派に組み込んだ。それまでの保守政権とは違い、かなり社会主義的な政策に親和性の高かった田中氏は、野党の主張していた政策をどんどん取り入れ、実施して行った。すなわち、三方一両得なみんながおいしい部分が前面に出ると共に、睨み合う三すくみはより一層形骸化していった。

しかしバブル崩壊以降、その構図は一変した。55年体制の生命線ともいえる「右肩上がりの経済成長」が、ついに終焉してしまったからだ。55年体制の総本山である田中派の中核が自民党から独立し新生党を結成、非自民党政権が誕生し、自民党は下野した。この現象はバブル崩壊によりバラ撒きに基づく55年体制が維持できなくなったため、今後も田中派的な政策実施を担保するための、新たなスキーム構築を目指したとみるべきである。

近い将来黄金律が崩れることを前提に、新生党を中心とする勢力は新たな構造の構築を目指した。それは中選挙区をベースとした仮想の対立構造によるバラ撒きの正当化ではなく、同じスキームを求める者同士が一つの政治勢力としてまとまり、正面切って政策実施を行うというものである。このためには小選挙区をベースとした新しい政治制度が必要になる。細川内閣の唯一といえる成果が「選挙制度改革」だったことがこれを示している。

こうなってくると「野党勢力」を誰が味方に付けるのかが、政権運営のカギになる。この事情は労働組合と結びついた野党の中でも同じである。当然既得権重視の勢力と、新たな権益を作りだすことを重視する勢力とが対立することになる。そういう意味では、既得権益重視の勢力がかつての与野党を超えてまとまったものが、自社さ政権だったと考えることができる。水面下で手を握り合っていた自民党と社会党が、同じ利害のために公然と手を結んだわけである。

そういう意味では、これはある意味「本流の守旧派」である。その後合従連衡のカタチは次々と変わってゆくが、スタートが本来の意味での改革ではなく、55年体制の組直しにあったという事実は大きい影響を残すことになる。また、のちの新進党から民主党の流れを見ている限り、「改革」を主張していても選挙は組合頼み、議員は官僚出身者が多いという体制が続き、基本的に「大きい政府」志向から脱することができなかった理由も理解できる。

この前の衆議院選挙で民進党が醜態を演じ、自ら「野党」の命脈を断ってしまったが、その原点は93年の非自民政権成立時に、それまでの革新政党が組合票をバックに連立政権のキャスティングヴォートを握ることで、利権にありつけるおいしさを覚え、既存権益を死守する守旧派の権化になってしまったことにある。野党の死、それは93年に始まっていた。よくぞゾンビが20年以上徘徊していた。これは驚き以外の何物でもない。


(17/12/15)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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