時間消費





最近では、インターネット上で実質的に無料で見れる映画や映像を提供するサービスも多い。オンライン・ゲームでも、一時のような課金アイテムがないと事実上プレイできないものばかりではなく、無料でもそこそこ楽しめるものが増えてきている。SNSをブラウズするだけでもけっこう暇は潰れる。インターネットで提供されている無料のサービスだけでも、充分楽しめるようになっている。

その証拠に、電車の中を見回せば、ほとんどの人がスマホを手に時間を潰している。覗いてみると御三家は「ゲーム、ストリーム番組、SNS」という感じだが、そのどれもが無料のコンテンツである。十年ぐらい前までは、週刊誌や夕刊紙、あるいは文庫本を読んでいるひとがほとんどだったが、これらの出版物が有料のコンテンツだったことを考えると、大きな変化である。

確かに回線料は払っているのだが、コンテンツには料金を払いたくない。そもそも料金を取られるコンテンツでは、暇潰しに適さない。だからインターネット上のコンテンツサービスも、民放テレビ型のビジネスモデル、すなわち「視聴者には課金せず、ほかの部分で収益源を担保する」に収斂してしまった。というか、マスに支持されヒットするコンテンツサービスにするためには、これしかないのである。

これは10年ほど前、私がD社で生活者インサイトチームを率いていた時に、インタラクティブメディア上のコンテンツサービスのビジネスについて、ヒットのカギとして「ゼロ円感覚」というキーワードを提言した通りの展開である。インターネット上でもコンテンツがマスにヒットするには、民放テレビ型のビジネスモデルを取ることが必須であるという考察は、確かにその通りになっている。

しかし、インターネット上で無料の暇潰しコンテンツが無尽蔵といえるほど大量に提供されるようになると、世の中の新しい局面が見えてきた。世の中には「時間が余っている人」と「時間がない人」の二種類があることが明らかになったのだ。「暇潰しの材料」にコストというキャップがかからなくなったので、無限に暇潰しが可能となったからこそ、この両者の違いが明確になった。

さらにこの両者の違いは、所得とも密接な関係がある。数多い一般の消費者には、時間がある。金はないが、時間がある。その一方で、所得が多い人には時間がない。金はあるが、時間はない。無料で暇潰しのコンテンツが楽しめるようになれば、「金はないが、時間がある」人達はむさぼるようにそれを楽しむ。このような幸せな関係が成立してしまった。これが昨今のインターネット・コンテンツの状況である。

所得はさておき、これはモノを創りだしているクリエイター層についてもいえる。まあクリエイター層は概して映画を見るとか音楽を聴くのは好きである。だが、ゆっくりそれを楽しめる時間がない人が多いのだ。仕事として、パクりにならないようにチェックするために聴く、というのはやると思うが、それが精一杯。楽しんで、見たり聞いたりする時間がない。めちゃくちゃ忙しい。

私事ではあるが、昔バブルの頃とかはある意味今とは違う忙しさがあったが、手待ち時間もかなりあった。昼間ぽっこり時間が空くと、映画とか見に行った。結果としてほとんどロードショーの映画を見尽くしてしまい、レンタルビデオ店に行っても新作映画はほとんど見たことがあるものばかりだったことを考えると、こと時間の余裕ということに関しては雲泥の差がある。

さらに困った構造的問題がある。金については理論的には青天井であり、それが実現できるかどうかはさておき、いくらでも巨額の金を得ることはできる。ところが時間はどんな人間においても、一人の人間には一日で24人時間しか得ることはできない。睡眠時間を削ってもこれなのだから、時間については強烈なキャップが嵌っている。

サポートするスタッフを付けたり、チームで対応したりという対症療法も行われているが、名医や高名な弁護士などの高収入は、余人をもって代えがたい能力によって担保されており、あるところから先は本人でなくてはできない。クリエイターも同様に、作品の質をキープするためには、本人がきっちり関わって本人のセンスを作品に反映させる必要がある。

高所得も付加価値を生み出しているからだと考えれば、「付加価値を生み出せる人は、金はあるが時間がない」一方「付加価値を生み出せない人は、時間はあるが金はない」。人々が二種類の類型に分化してしまうのだ。この二つの層はこれからIT技術の発展と共に現われてくる、「AIでできないことを生み出せるので、AIを使いこなす側の人」と「AIに使われてマン・マシン・インターフェースの最後の部分となってしまう人」とほぼ一致する。

ここに大きな構造的問題が存在する。民放テレビ型のビジネスモデルである「0円感覚」は、そのターゲットたる時間が余っている人が消費マーケットの主要なプレイヤーだったから成り立ったものである。しかしこのまま行くと、付加価値を生み出せない「時間が余っている人達」はさらに収入が減少するため、もはや消費マーケットの主役ではなくなることになる。それでは彼らをターゲットとするコンテンツに「タネ銭」を支出する意味がなくなってしまう。

かつてテレビの将来について、ぼくらの生活者インサイトチームは「エンタテインメントメディアとしてのテレビはニーズがなくなることはないが、それよりテレビビジネスが立ち行かなくなる方が先であろう。その「死期」は、生活者のボリュームゾーンが貧困化して消費の広告ターゲットたり得なくなり、広告に基づくビジネスモデルでは金が集まらなくなるときであろう」と結論付けた。

これはあくまでもビジネスモデルの終焉を理論上からのみ捉えたものであった。しかし、どうやらそこに行く道のりが具体的に見えてきたような感じがする。21世紀後半の先進国では、金のない人々にどうやって楽しく暇を潰させるかが重要な社会問題になるだろう。まあ、二番煎じのエンタテインメントなら、AIが安く自動的に生み出してくれるようになるだろうから、それも同時並行で解決されるのかもしれないが。


(17/12/22)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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