産業社会の終わりに





今年2017年は、何年か先の歴史学者が振り返ってみて、大きな変化の節目となった年として認識されることになるだろう。21世紀が始まってから20年近く経つ。1980年代から「産業社会から情報社会への変化」ということは言われ続けてきた。確かに技術は進み、便利になったが、当時言われたほどには人々の価値観が大きく変わったわけではない。逆に、これは我々が生活者インサイトとして仕事で言い続けてきたことだが、技術が価値観を変えることはなく、新しい技術でも古い価値観でベタに使われてこそヒットすることが続いていた。

技術とか経済構造とか、そういう外部的なスキームは5年・10年単位で変化するが、それとは全く別の原因により、人々の価値観は50年・100年単位という大きい波では変化する。それは世代が交代し、社会の中心となって働いている人達が全く違う環境で育った人達と入れ替わるからである。たとえば日本でいえば、自我を形成する時期が高度成長以前か以降かで、価値観が全く異なっている。それまでの貧しい時代に育った昭和20年代以前生まれと、昭和30年代以降生まれとは意識や行動においては違う人種である。

そういう意味では、その「古い世代」が労働年齢を外れ完全にリタイア層となったことにより、日本社会においても変化が起こってきたということだろう。これはあくまでもコンピュータやネットワークの影響による変化ではなく、「豊かな時代」に育った人々が社会の中核となることによって起こった変化である。ここを見誤ってはいけない。結果的に生まれた時からテレビがある世代で、テレビから流れる情報も斜に構えて受け取る「ヤラセでも面白い番組の方がいい」世代である。

その分、メディアリテラシーがそれ以前の世代より格段に高いのは確かだが、それはIT化・デジタル化がもたらしたものではない。自我形成期の「豊かな日本」という環境がもたらしたものである。産業社会のスキームというのは、「貧しい社会の労働者」が社会のボリュームゾーンであるという構造からスタートしている。イギリスは今でも階級社会であり、貴族階級、中産階級、労働者階級がきっちりと棲み分けているが、まさにあの構造が産業社会の基本である。

社会のボリュームゾーンが、基本的に食うに困らず、酒池肉林はさておきそこそこエンタテインメントにあふれた生活ができるというのは、その当時では理想であった。ヴィジョナリストの哲学者であったマルクスが描いたユートピアである「社会主義社会(実際の社会主義とは違う理念上の存在)」はまさにその設計図である。個人間の能力差と収入差はあるものの、現代日本では階級はない。評価されるべき才能があるなら、必ず評価される社会である。最も、才能と努力を取り違えている人もいまだに多いのだが。

まさに、豊かな時代になってから育った人が主流になっているということは、貧しく飢えた意識を持っているものが多数という産業社会の基本構造が崩れていることを示している。老害評論家は、若い層ほど自民党の支持率が高いことに苦言を呈しているが、人々の基本的な意識が変わってしまったのだからこれは当たり前である。若い人ほど、個人的な収入や財産には差があるだろうが、共通して「失うモノがある」し、だからこそ現状からの変化を何よりも恐れているのである。

これこそが、21世紀的な社会の基本スキームである。程度の違いはあれども、産業社会を牽引して来た20世紀の「先進国」の社会、特に若い層が「保守化」している。豊かな時代に育った者は、貧しい時代に育った者と価値観が異なるということを踏まえれば、この傾向は当然といえば余りに当然の現象である。現状を現状として受け入れ、それを前提にこれからの社会をどう運営していくかということを考えてゆく必要がある。これこそが来年以降、最優先で取り組むべき課題である。

そもそも「左翼」もまた、産業革命が進み社会構造が変化する中から生まれてきたものである。それまでの西欧の社会は中世からの産業構造を受け継いでいたため、ヨーロッパにおける「庶民」には農民と職人しかいなかった。彼らはマルクス主義的に言えば「生産手段を自ら持っている」人々であり、今風に言えば自営層であった。左翼や社会主義的な考え方は、「庶民」の主流が「生産手段を持たない」労働者になったことを前提に、そのような社会構造の中でどうやって自分の立場を有利に導くかというところから生まれてきた。

確かに産業革命直後の西欧社会は、企業の組織構造や雇用の基本ルールなども出来上がっていない状態であった。このためラッダイト運動のような、社会の構造変化自体を暴力的に否定する運動も盛んに行われた。しかし、もはや自分達は無産の労働者としてしか生きて行けないことを認識してからは、いかにして自分達のプレゼンスを認めさせ、相応の待遇を引っ張り出すかが主要な課題となった。このような流れの中から社会主義や左翼運動、労働運動が生まれてきたのだ。

当然、産業社会のスキームが崩れてしまったら、自分達の存立基盤もアイデンティティーも崩壊する。もはやイデオロギーは虚構である。これからの社会ではいよいよ、自分の所得や資産に関わらず身の丈で生きてゆくことを美徳とし自助努力を重視する「小さい政府・市場原理」を信奉する人々と、他人頼りで満足を知らず無いモノねだりばかりする「大きい政府・バラ撒き」を信奉する人々との対立構造が中心となる。とはいえ、結果は目に見えている。何しろ太古の昔から「無い袖は振れない」のだから。


(17/12/29)

(c)2017 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる