小賢しいヤツらメ





ぼくは70年代の新左翼とか80年代のパンクロックとかが大好きだ。現状への不満をそのまま荒々しく叫んだりぶつけたりするモチベーションは良くわかるし、応援したい気になる。そして、それを暴力に訴えるのも極めてシンパシーを感じる。アホに徹して爆発してしまう、これはある意味人間の原点である。不満が溜まったら我慢せず、暴発してしまって暴力に訴える。それは70年代以前に人格形成した人なら極めて自然な動きである。自分の気持ちに素直に動く。これは、思想信条とは関係ない、人間としての生き方の問題だ。

近年、メンタルヘルスが社会問題化している。ストレス耐性が弱く、責任のプレッシャーがかかるとその矛盾を全部自分の中に受け止めてしまい、鬱になり人格崩壊する。これなども、自分の中にストレスを貯め込まず、面倒になったりイヤなことがあったりしたら、すぐ相手にぶつけて喧嘩すれば、そこでスッキリ。それで気分も良くなるし、意外と爆発して喧嘩した方が、忖度しまくるよりも相手とも和解し理解し合えるるものである。

世の中には、仲良くするのでも喧嘩するのでも、そもそも他人とのインタラクション自体が苦手だという人もいる。特に日本人の男性では、こういうタイプの人間は結構多い。かつては他人と折衝することもなく、黙々と言われたことだけやっていればいい仕事も多々あった。このためこういう仕事は「無口で無骨な職人気質」などといわれて、コミュ障でも許されてきた。しかしこのタイプの仕事は単純で定型的であるがゆえに、今や機械やコンピュータシステムで置き換えられてしまった。

それと共に、こういうコミュニケーションが苦手な人は、居場所を失うようになった。それだけでなく、こういうタイプの人ほど、相性の良くない仕事でも無理してやってしまう。がんばればなんとかなると思ってしまうし、ウマくいかないのは自分の努力が足りないからだと思ってしまう。その結果、コミュニケーションが苦手であるがゆえに増えるストレスを、全て自分の中に溜めてしまう。そしてメンタルを壊してしまうのだ。

相手とコミュニケーションするのが苦手なのなら、コミュニケーションしなくてもいい。言葉はいらない。そこまでストレスを自分の中に溜めずとも、不愉快になった時点で相手をぶん殴って喧嘩すればいい。そう言えば、昔の無口な男は喧嘩っ早かった。言葉より早く、拳骨が飛び出したものだ。もしかすると、それでバランスを取っていたのかもしれない。なら今でも、それでメンヘルを防げるならもっと殴り合えばいいではないか。

それはさておき、かつて新左翼が支持されたのは、新左翼の活動家の多くがすぐ自暴自棄になって喧嘩を売り「自爆テロ」に走る「瞬間湯沸かし器」タイプだったからだ。その意気込みの爽快さに、そこまでアホに徹し切れない人達が、自分持っている不満を託そうと支持してきた。自分は「自爆テロ」はやらないものの、気持ちとしては爆発してスッキリしたいと思っている人は結構多い。そういう人が、新左翼の心情的シンパになったのだ。

ところが問題は、日本が豊かになってからの左翼の人達だ。80年代以降の左翼は小賢しすぎる。ヤケになってキれて行動するのではなく、言葉で逃げて高みの見物ばかりである。変な屁理屈は言うけど、自分の命を賭けない。自爆テロなど絶対しない。何で左翼のクセに、自ら行動を起こさないのだ。他人をけしかけることはあるかもしれないが、自分は絶対に痛い目に合わないように真っ先に逃げる。行く先が詰んでいる時のリーダーであれば、暴力に訴えて自分が真っ先に殉教者となって死ぬのが当たり前ではないか。

福島瑞穂でも蓮舫でもいいが、左翼の人達はそんなに安倍首相が憎いのなら、自爆テロで一緒に心中しろ。それが反体制のリーダーシップというものだ。それをやれば、その考えに賛同する人達は後についてくるだろう。思想的には絶対に支持しないが、テロという命を賭けた行動には俺も一目を置く。階級闘争が激しかったころの左翼運動は、みんなそうやっていた。行動によって支持者があつまるし、もしかしたら社会も変わるかもしれない。本当に自分の思想が正しいと信じるなら、そうすべきだ。

ガキの言い訳のような、説得力のない屁理屈を重ねるより、テロの方がほど社会的説得力がある。私は、理屈は信じないが、暴力は信じている。暴力こそ正義である。それは、自分の全てを捨てて、世の中を変えることにマジで命を賭けることを意味するからだ。命の説得力は、どんな言葉よりも強い。だからこそ失うことのない人は強いのだ。それは、暴力を使えるから。無産者の強さは、失うものがないから暴力に訴えられることじゃなかったのか。

革命とは暴力である。気に食わないヤツは自己責任で殺せ。自分が死ぬ気になれば、相手は確実に殺せる。これこそが正義だ。命と命、一対一。それができないヤツは、勇気がないだけだ。刀を持て、銃を持て、爆弾を持て。不満があるなら、自分の命を持って主張しろ。私の思想は保守・新自由主義であり左翼とは相容れないが、左翼のテロリストが登場したなら、その勇気ある行動は確実に賞賛する。

私の思想は徹底して「反理性」である。理屈は嫌いだし、秀才は嫌いだ。知識なんていらない。人間は気持ちのままに生きればいい。今の世の中では暴力が封印されているから、空気を読めないヤツはダメだと言っているだけだ。暴力を行使できるのなら、空気を読む必要もない。気に食わないヤツをぶん殴ればいいだけだ。ぶん殴られてもいいなら、そいつの好きなようにすればいい。それがこの世の掟である。

そもそも人間は一人なのだ。最初から最後まで仲間な奴なんていない。それを妙に甘え合うからおかしいのだ。共通の目的があれば、経過措置としては不倶戴天の敵とも組める。人間関係とはそう言うもの。極めて刹那的なものだ。群れるもの、寄らば大樹の陰を求めるものは、その時点で「お前はもう死んでいる」。一人で戦うものだけが自分の夢を成就できる。同じ目的に命を捧げる仲間も集められる。目標は生きているうちに達成できることもあるし、命を賭けてはじめてできることもある。

日本の勇気ある者よ、テロリストとして現われて来い。今こそ、時代が君達を求めているのだ。但し、老人のテロリストは願い下げる。それは個人的喧嘩で、社会を変える力になりにくい。若いヤツからこそ、テロを行うべきだ。一人一殺。血盟団とかあった、昭和の初期はよかった。右翼も左翼も、現体制に不満のある人は、テロに訴えて実力行使した。屁理屈とか、メディアウケはやめろ。今や左翼こそテロだ、テロしかない。本当の左翼なら、自爆テロに走れ。それをやれば、確実に支持者が集まるし、ムーブメントが起きる。死して確実に名を残せるのだ。


(18/01/05)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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