自由への長い旅





他人に迷惑をかけないことが大前提になるが、人には自分のやりたいことをやりたいようにやる自由がある。これこそが人間の持つ「権利」の本質だろう。すなわち自由を得るためには、自立・自己責任で行動できるコトが前提となる。自助努力を怠らず、自己完結していなくては、自由は得られないのだ。このような「権利」はリベラル派の語るような、何でもバラ撒いて欲しい「権利」の対極にある、自らの努力で手に入れるものである。

すなわち、他人や組織に甘えていては自由は得られないのだ。共同体に守ってもらい、寄らば大樹の陰で、辛い思い・痛い思いをせずに自分のやりたいことができるわけがない。「寄らば大樹の陰」を得たければ、組織や共同体の掟を守り、その一員としてのポジションを確保することが前提になる。逆に自由を得たければ、組織や共同体から離れた一匹狼として生きる必要がある。

その一方で、自分が共同体にすがって甘えているワリに、自分のやりたいことができない、自分のやりたいようにできないと主張する人が、日本人には余りに多い。あるいは、組織や共同体の掟の枠内で、建前と本音の隙間を使って自分のやりたいことをコソコソやろうとする。いずれにしろ、スキームにどっぷり浸かっておきながら、そのスキームと矛盾することを主張していることになる。だが、それは単なる「わがまま」だ。

共同体にすがるなら、共同体の掟に従うのが筋だ。自分がやりたいことがあっても我慢するのが筋だ。組織というのは、そのトレードオフで成り立っている。メンバーの我慢が前提としてあり、それだけの我慢をしても得られるメリットの方が大きいからこそ、その組織に属しているのだ。日本の組織の場合、そのメリットは「楽だ」とか「無責任でいられる」といったものであることが多い。

もちろん、自分がやりたいことを貫く自由はある。だが、その権利は全てを自分の責任において行うことによってのみ担保される。まさに、自立・自己責任。自助努力によってのみ自由は手に入る。誰かに甘えたり、共同体のような大きな組織にすがったり、あるいは責任を誰かに押し付けたりしたままでは、自分のやりたいことができるわけがないのだ。だが、組織に紛れる生き方しか経験したことのない多くの日本人は、これがわかっていない。

本当の努力とは、自立することである。努力とは自分のために自分の内側で行うことなのだ。ところが日本人の多くは、属する組織や共同体のインナーに向けての「ポーズ」を、努力と勘違いしている。こんなに努力したから偉いんだ、こんなに辛い思いをしても耐えたから偉いんだ。実は何も成果がないのだが、努力はそれ自体を目的化して評価されるという誤解をしている人が多いのだ。

昔は、苦しくても水を飲まずにトレーニングに耐えることで、ワンステージをクリアした気分になっていた人が多かった。それは努力でもなんでもない。そもそもトレーニングですらない。辛さに耐えることで、マゾヒストとして被虐の悦楽に浸っている「自己満足」でしかない。他人から評価されるとしても、それはせいぜいある集団の中での儀礼としての「ごっこ」であろう。

そんな苦痛をいかに多く経験したからといって、客観的な成果が上がるわけではない。これではその集団外の人々からは評価されるわけがない。日本の組織の多くが、甘え・無責任のためのシステムとなっているがゆえに、多かれ少なかれこういう「自己満足的評価軸」を基準として物事を判断する仕組みに基づくムラ社会になっている。これでは、日本の大企業が組織として腐ってしまっても当たり前であろう。

去年から続く相撲界のゴタゴタなども、まさにこの「ムラ社会」の揉め事である。日本相撲協会の当事者性の無さには目を覆うものもあるが、貴ノ花親方も相撲界というムラ社会の中の原理主義者でしかない。端から見れば、どちらも笑止千万。まともなバランス感覚を持つ者から見れば、ギャグにしか見えない。もっとも組織に依存している多くの日本人にとっては、意外と自分の問題として見えてくるので、これだけ話題になるということだろうか。まあ、勝手にやってくれとしか言いようがないな。


(18/01/12)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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