「電気羊」の夢





先生の指導や勧め、教科書通りでしか物事ができない人。教わった範囲のことを教わった通りにしかできない人。こういうタイプは日本人には結構多い。というより、こういうタイプの方が主流である。そして、こういう人ほどペーパーテストではいい点数を取りがちである。まあ、教わった通りにきっちりやるのだから、授業で教えられた内容を確認する「テスト」が得意なのは当たり前といえば当たり前なのだが。

マニュアル人間、指示待ち人間というのも似たようなタイプだ。メディアの言っていることをそのまま信じるのも、同じ穴の貉である。自分の考え、自分でひねり出した答えに基づいて行動するのではなく、誰かから教わった内容を鵜呑みにして信じる習性があるからだ。一人でいるとどうやっていいかわからなくなるので、すぐに群れようとする。より大きな集団に属そうとする。マジメな秀才には、こういう人が多い。

しかし、それは人間ではない。機械である。ハードSFに出てくるサイボーグやレプリカントを思い出してくれ。いろいろな小説や映画で「機械人間」が描かれているが、その決定的な違いは、機械は「自分で答えを導き出せない、自分で無から有を生み出せない」ところにある。そこが人間とは違うのだ。SF作家のイマジネーションは中々的を射ていることが多く、このような描写は示唆に富んでいる。

かつて産業社会の時代には科学技術の飛躍的な発展により、生産やロジスティックスにおいては爆発的に効率が改善した。この結果として、地球レベルで経済が一桁・二桁と文字通り「桁外れに」発展した。しかしその一方で、産業革命以降約200年近くの間、情報処理技術はあまり発達せず、生産の拡大には人海戦術による情報処理で対応しなくてはならなかった。現代社会のベースは、このような時代に最適化した社会構造にある。

この時代おいては、「情報処理のマシン」となってくれる人材が大量に必要であった。このため、人間系で情報処理を行うため官僚組織や会社組織のような目的合理的な組織が生まれ、その部品として適合した人材を育成する教育が行われた。教育内容だけでなく、教育や能力開発の制度そのものも、そういう人材育成にオプティマイズしたスキームが開発され発展した。これが我々が今目にしている社会制度の本質である。

1970年代にマイクロコンピュータが発明され、情報処理の機械化がやっと現実のものとなった。以来半世紀、コンピュータとネットワークが融合し、情報処理技術が飛躍的に発展した。そして今、高度なAIが実現しつつある。情報を分類・蓄積するだけでなく、整理・統合して目的に合わせ「すぐ使える」形でアウトプットすることが可能になった。少なくとも、勉強と暗記でこなせるものは機械に任せられるようになった。

ここまできてはじめて、産業革命での生産技術の機械化と同じレベルで、情報処理の機械化が進むのだ。言い方を変えれば、マルクス的な意味での「ユートピア社会」への道のりとしては産業革命からの200年が前半段階で、これから入る後半段階を経て理想郷が実現できるということになる。かつてマニュファクチャの時代に肉体労働でこなしていた作業が機械により置き換わったように、オフィスの人海戦術も機械が取って代わる。

実は20世紀までオフィスで人間が行っていた仕事の多くは、機械でできる情報処理である。それがこれから機械によって置き換えられていく。そのような変化に対しいわれのない不安を持っている人も多い。中には産業革命時の「ラッダイト運動」のように、暴力的に守旧を主張するテロリストも現れるかもしれない。とはいえ、時代は容赦なしに進んでいく。勘違いをしてはいけないが、そもそも人間は会社員になるために生まれてきているのではない。

これからの時代においても、人間がやるべきことはたくさんある。マジメな秀才でもやれる仕事はちゃんとある。ブレードランナーの中でも、レプリカントの仕事はたくさんあるではないか。問題はただ、それがワリがいいかどうかだけ。それで喰って行けて、満足できればいいのだ。一人の人間が持つ人権は平等だが、才能は平等ではない。才能には差があるのだ。これを理解した上で、自分が何たるかをわきまえる。レプリカントはレプリカントらしく生きろ。これがこれからの時代の人の道である。


(18/01/26)

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