生存権





憲法第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文がある。いわゆる「生存権」である。現行の日本国憲法についてはいろいろな立場があると思う。同様に「人権」に関しても、多様な考え方が可能である。もちろん私も私の考え方を持っている。しかしどんな論者であってもこと生存権についてはほぼ議論の余地はないといってよいだろう。他の人々が人間として生きていくことを否定してしまっては、そもそも社会が成り立たない。

この条文にもし問題があるとするなら、実際の運用として「最低限度」をどうとらえるかである。条文そのものがあまりに普遍的なものとなっているがゆえに、第25条自体があまり議論の対象となることがない。議論を呼ばないゆえに、この「最低限度」の解釈も議論されることが少ない。しかし、実はここに大きな問題が潜んでいる。基本的人権として保障されるべき福祉のレベルはキチンと議論する必要がある。

特に、この憲法が昭和20年代初頭という、まだ日本が貧しい開発途上国だった時代に作られたものであることを考えると、ここで想定されている「最低限度」は、今のような安定的で豊かな世の中を前提に考えるものとは、大きく異なモノであることは想像に難くない。あの時代に、日本が高度成長を遂げ、バブルで世界の頂点に立ち、その後安定的な成熟社会になることを想像できた人はほとんどいないであろう。

余談になるが、現行憲法の最大の問題はここである。20世紀後半の日本社会の変化、世界情勢の変化を考慮すると、70年前の日本国憲法とは、大宝律令や武家諸法度をいまだに基本法規として使っているようなものである。一国平和主義でも、国際社会の安定への貢献でも、どちらの主張も思想信条の自由としてはあり得ると思うが、いずれにしろその主張を今の日本社会のありようを前提に、きちんと憲法の条文の中に記述する必要がある。

人種・性別・年齢などによって差別されないこと、平等に扱うこと。これが人権の基本であろう。生存権も同様に考えるべきである。「入り口」に敷居を作ってはいけない。このような人としての扱い方の問題に関しては、「スマイル0円」と同じであくまでも当事者間の精神論の問題であり、青天井で全て実現する必要がある。ただ「入り口の平等性」とそこから先のオプションの差異とは、まったく別の問題である。

生活保障や老人介護といったコストのかかる問題については、どこまでそれを保証するのか、時代や状況を鑑み、常に見直す必要がある。何人も命を奪われることは許されない。しかし、だからといってねだれば無条件でなんでも税金で賄うということなどありえない。人権とは、金をバラ撒くことではない。見直しを行わずバラ撒きを重ねると、既得権化してコストばかりがかさむことになる。

問題は、今の日本で行われている税金のバラ撒きに関わる制度が、コスト意識がなく、無尽蔵な税収が永遠に続くと思われていた高度成長期に設計されたものである点だ。経済成長により、来年は今年より必ず税収が伸びると信じられていた時代。「自分達は不遇をかこっている、だから国がバラ撒け」いう主張には、対応にてこずる位ならその位なら手っ取り早く払ってしまえという発想がまかり通ってもおかしくない。

なんでもかんでも税金で賄う、お上に出してもらうという日本共産党のような甘えが成り立ったのは、右肩上がりの成長が続いていた高度成長期ならではのものである。安定的に豊かだが税収の伸びが期待できない時代には、とても通用しない発想だ。無い袖は振れない。命を繋ぐための最低レベルを、セーフネットとして保証しなくてはならないのは当然であるが、それ以上を保証しなくてはいけないという道理はない。

セーフネットを越える部分については、あくまでもオプションとして自己負担でやるべき問題である。自助努力があってはじめて得られるものとしなくては、向上心が生まれなくなってしまう。生きてゆくことを否定することはできないが、どう生きるかは自己責任でなくてはおかしい。こういうシステムになっていないから、なんでもバラ撒きにネダる人達が跋扈する。

このような人達にとっては、一旦得た既得権こそが最も大事なものであり、これを死守すると同時に、あらたな利権を獲得することが文字通り「生きがい」となってしまっている。これもまた、高度成長期のずさんな財政がズブズブの利権垂れ流しを許し、官僚達がそれを悪用してバラ撒きのための公益法人を作り、そこに天下りの椅子を確保しようとその悪弊を加速させたことによる。

貧しい開発途上国からテイクオフし世界でも稀な高度成長の果てにバブルを謳歌するまでの過去の日本の歴史においては、大きい政府やバラ撒きもそれなりに意味を持った時期があることは否定できない。しかしそれは歴史の一ページであり、いつでも変わらない真理ということではない。時代や情勢にフィットした制度を取り入れ、社会エコシステムの最適化を図ることは、次の時代に生き残るためには必須の要件であることを忘れてはならない。


(18/02/02)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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