思いやる心





エゴを丸出しにするのは、醜く意地汚い行為だと思われがちである。しかし、果たしてそうであろうか。「腹が減っては戦が出来ぬ」ではないが、自分の欲望を全て我慢している人間が、他人の事を親身になって考えられるとは思えない。まず自分が腹いっぱい喰った上なら、変な下心を持たずに余った分を喜んで他人に差し出すことができる。それと同様に、自分の欲求を満たしてはじめて、真剣に他人を思いやる余裕ができる。

もっともこれは、豊かで安定的な時代になったから言えることなのかもしれない。「椅子取りゲーム」ではないが、頭数より食い物の数が少ない貧しい時代においては、「どうせ飢え死にするよりは」とばかりに、まず相手をぶっ殺して「頭数」の方を減らし、食い物の数に合わせることになりがちである。リソースが少なく、そもそも全ての人が生きて行けない世の中では、食い物を奪うだけで殺し合いが起きる。まさに芥川龍之介の「蜘蛛の糸」である。エゴを否定的に捉えるのは、こういう「抗争」を防止するためだろう。

現代の先進国のような社会環境においてはそんな心配はない。だからこそ、「人間エゴになって自我を出しきれなければ、他人を救うことはできない」というホンネを堂々と語ることができる。「自分を捨てて他人を救う」ことなど、はっきり言って偽善である。日本でチャリティーや寄付が根付かないのは、税制上の問題もあるが、「エゴの満腹状態になってから人を救う」体験をした人が極めて少ないからである。

少なくとも昭和初期ぐらいまでの日本においては、資産家と呼ばれる人々は、篤志家として地域の有能な人材を育てたり、文化の保護育成のために資金を提供したり、CSRのような「社会的責任」を積極的に行ってきた伝統があった。こういう人達は、欧米的に「エゴの満腹状態で人を救う」体験をしていた。しかし「40年体制」が続くと共に、このような美しき伝統も廃れてしまったのだ。

「自分を捨てて他人を救う」ことを、ある種精神的にハイになってやってしまうこともある。だが、そういうヤケを起こしてやったものは長続きしない。それはできたとしても、「一人一殺」である。一人救って終わりになってしまう。溺れている人を救おうとして、自分が溺れて死んでしまう人がいる。それでさらに救助隊に犠牲者が出たりしたのでは、元も子もない。特攻隊が神風攻撃に向かっても、突っ込む前に撃墜させられてしまうようなものである。

自分が生き続けられなければ、他人を救い続けられない。これが人助けの基本である。大切なのは「続けられる」という部分だ。一回きりの「良いコト」は、実は人助けではない。それは「ダメ。ゼッタイ。」なクスリを、軽い気持ちで一度与えてしまうのと同じだ。人助けや社会貢献も、ゴーイング・コンサーンを前提とするからこそ社会的に意味がある。常にそれがそこにある状況を実現してこそ、本当に人を助けられるのだ。

日本は長らく貧しい発展途上国だった。日本の常識の多くはその時代に培われたものだ。だが、今は状況が異なる。一切れのパンを取り合うわけではなく、食い物はあふれている。それならば、まず最初にお腹を満たしたものが、そのエネルギーを使って次の人のための食い物を取ってくる方が合理的だ。リソースが無尽蔵にある以上、このやり方を繰り返した方が、獲り合いをするよりよほど効率的で全体最適になる。

このように、人間は満腹になってこそ利他的になれるのだ。有り余るリソースがあるならば、獲り合わずとも全ての者にリソースが行き渡るような「全体最適」は可能になる。人類の歴史とは、言い換えればこの「満腹して利他的になる」社会を実現することを目指し続けてきたのだ。これこそ、マルクスが夢見たユートピア社会であろう。そういう社会がしっかり目の中に捉えられるところまでやってきたのだ。

逆に満腹になっても、自分が食べられる以上に食い物を独占して隠匿しようというものこそ糾弾されるべきである。貧しい時代に育った者は、心が卑しいので、どうしてもそういう考えになってしまいがちだ。貧しい時代においては、エゴとはリソースの獲り合い・独占であった。しかし豊かに時代においては、各メンバーがエゴを主張することが全体の幸せにつながる。

それは、豊かになって命を繋ぐ心配がなくなったことにより、喰うためのエゴから、自分らしく生きるためのエゴに変わってきたからだ。こういう時代においては、ひとまず他人に迷惑を掛けない範囲においては、誰もが自己責任の取れる範囲で自分のやりたいようにふるまい、エゴを押し通すべきである。そこで自分が満足してはじめて、余ったリソースで困っている人を救おうという気持ちになる。

問題は現代日本においては、政治家も官僚も財界人も、本当に心豊かに満足感を得たことのある人が少数である点だ。昔は、それなりのポジションに就いている人は、それなりの家に育った人ばかりであった。生まれた時から満たされて、優雅に暮らしてきた人。だから、むやみに金や権力を求めず、背伸びや悪事もしなかった。しかし、学校の勉強さえ出来れば、誰でも地位を得られる世の中になってしまった。

満足することなく育った人は、金や権力への欲望にきりがない。この両者の違いは、エゴをぶつけ合えばすぐわかる。自分の満足が得られている育ちがいい人は、性格が良いため自分の欲望が満たされると利他の精神が出てくる。欲望に際限のない育ちの悪い秀才エリートは、性格が悪くどこまでいっても自分のことしか考えない。そう、ここで答えが見えてきた。これからの社会で重要になるのは、「成績の良さ」ではなくこの「性格の良さ」なのだ。


(18/02/09)

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