経営のパラダイムシフトと広告






21世紀を向かえようとしている今、いろいろなものが大きく変わりつつある。その中でも特に話題に上るのが、企業経営環境のパラダイムシフトだ。企業の存在意義、経営判断の目標が、その根底から大きく変わろうとしていることは誰も否定できない。いままで企業において正しいと信じていたことが、全く違う価値観で置き変わろうとしている。すべての企業活動の常識は、一度疑ってかかる必要がある。当然、企業活動の基幹の一つであるマーケティングも変わらざるを得ない。そうなればマーケティングの構成要素としての広告・プロモーションも変化することは自明だ。

工業社会の企業経営においては、あくまでも企業の目的は明確だった。それは、売上主義、そしてシェア主義。数字の大きさだけで判断された。そして財務面でも、年間でドンブリで利益が出ていれば、各事業のプロセスや損益はどうでもよかった。こうなれば、採算分岐点割れでもやったもの勝ちということになる。当然、赤字覚悟、負け戦覚悟でもシェア争いに参戦する。これははっきりいって経営資源の無駄遣い以外の何者でもない。株主に対する責任が甘かったから、こういう判断もまかり通った。経営の効率化は、こういう無駄な負け戦をなくすことでもある。そのためには今まで以上に、マーケティングとマネジメントが一体化した戦略を取る必要がある。

旧来のマーケティングは、その理論も実践手法も、売上主義・シェア主義を前提としていた。今までの「常識」にとらわれていたのでは、その方法論が時代遅れになってしまったことさえ気付くことができない。利益重視の経営、効率重視の経営に対応したマーケティング戦略がなくては、今や答が出せないのだ。「その商品の事業計画を通したネットキャッシュフローを極大化するキャンペーン計画とそのコミュニケーション表現」のような課題に、現状の広告手法は何の答えも出せない。これは広告マンも、クライアント企業のマーケティングマンも、同様に抱えている課題だ。

しかし、一方で社会的なメディアの行動という問題がある。いくら広告の課題が変わるといっても、マス・キャンペーン自体がなくなることはない。マスメディアと対比されるインタラクティブメディアだが、WEB上でのイベントでも、大量に動員し盛り上げるためには、マスメディアの告知パワーが必要というのは、ディジタルメディアが日常的になると共に常識化した。インタラクティブであるからこそ、目的がなくてはアクセスしない。どんなに面白い仕掛けでも、どんなにスゴい新商品でも、どんなにすばらしいお店でも、誰にも知られなくては話題にもならない。告知が必要なわけだ。

目的がなくても目に触れ、告知力だけはあるマスメディアの特性は、インタラクティブの時代だからこそ重視される。まさに相互補完関係にあるからだ。東芝ビデオ事件の某会社員のWEBも、はじめはネットサーファーの間での話題だったのが、週刊ダイアモンドが企業の事件として報道して以来、テレビや新聞が報道し、一気に全国区の話題となったことも記憶に新しい。「インターネットが事件にした」のではなく、「インターネットが取り上げ、マスメディアが事件にした」のだ。この構造はメディアをとらえる上で今後とも変わらないし、メディア使いわけのためには重要な視点だ。

もちろん、マスキャンペーンを必要とする商品自体、今後ともなくなることはない。自動車業界に代表されるような、巨大な多国籍企業同士の合併やアライアンスによるポジションの強化は、強いところをより強くし、スケールメリットという面で効率を求めるモノだ。したがって、この領域では旧来のマスキャンペーンも手法として残ることは間違いない。その体格にあわせて、今まで以上に巨大なキャンペーンを仕掛ける可能性もある。だが、その予算を支出する側の論理と評価軸は、今までと全く異なるモノとならざるを得ない。

水平統合の、グローバル・メガ・カンパニーの時代はまた、ニッチの時代でもある。
恐竜が闊歩していた時代は、生存競争をくりかえす恐竜達だけが地上を支配していたわけではない。当時は恐竜とともに哺乳類も存在した。そして、その大きさの違いゆえにウマく棲み分けができていた。巨大な恐竜には必ず食べ残しがある。小さな哺乳類はそれを効率よく拾えた。だから共存できたし、隕石衝突で恐竜が滅びても生き残ることができた。この例をひくまでもなく、経営においては実はニッチは効率がいい。売上は小さいが、リスクのコントロールがしやすいので、利益率はよくできる。これに着目しない手はない。

効率の時代だからこそ、こういう市場が評価しやすい。カンパニー化した社内ベンチャーで、大企業自身がニッチも押さえにくる。だがニッチに関しては、マーケティングの手法がない。個人レベルのノウハウではさておき、体系化されてはいない。たとえばマニア的な趣味の世界では、専門ショップ、専門誌、専門代理店で、独自のマーケティングの世界が作られている。オーディオ、鉄道模型、改造車、みんな小さいながらビジネスモデルを持っている。

ニッチのマーケティングは、多分これに似た世界だろう。ただもう少し一般性があり、もっと大きな企業の独立した社内事業部に取り組む分、資金コストが多少安い点が違う。このヒントとしては、アメリカのニッチマーケティングの例がある。アメリカでは80年代にケーブルテレビが普及し、ローコスト経営に徹したプログラムサプライヤが、「低視聴率だがコストはさらに安い」ことを売り物にしたため、新しい広告ソースが流入した。ここに新しいビジネスモデルが生まれた。

具体的には、ティーンズ層向けの商品や黒人向け、ヒスパニック向けといったエスニック商品だ。これらの商品は、その市場規模やかけられるコミュニケーション・コストを考えるとそれまで雑誌しか媒体として使えなかった。だが、コストダウンいより放送がメディアとして利用可能になった。今後、メディアのディジタル化、ネットワーク化で伝達コストが安くなった場合、示唆となる点が大きい。雑誌やラジオでしかできなかった展開が、BS、CS等のディジタル化した「テレビ」で実現可能になる。だがこれもまた、実際の成果を得るためには新しいビジネスモデルが必要になる。

どちらにしろ、広告業界にとっての二つの大きな取引先である、広告主である企業も、メディアである媒体も、新たなパラダイムの元、いままでにないビジネスモデルの構築が、この変革をチャンスにつながるカギとなっている。それらを繋ぎ、あらたな価値を生み出すビジネスサイクルを構築するためには、広告業自体が、率先して新たなビジネスモデルの構築を提案してゆくことが必要だ。これはいままで、ともすると受注型で後手にまわっていた広告業にとっては、新たな社会・経済的なアイデンティティーを構築する千載一隅の好機ともいえる。まず、我々自身が過去から生まれ変わることが必要なのだ。

(99/08/06)



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