人生はハイリスク・ハイリターン





このコーナーでも前に分析を行ったが、新卒採用を行い終身雇用・年功給を保証するいわゆる「日本的雇用」は、日本に資本主義が根付いた当初からあったものではなく、高度成長期の飛躍的な発展で、一気に人材不足に陥った日本の大企業が、「青田刈り」など社員の囲い込みシステムを構築してゆく中で出来上がった、高々20世紀後半の5〜60年程度の歴史しかないものである。

このように新卒採用は、日本においても決して伝統的・歴史的なものではなく、高度成長期の人事課題への対症療法として生まれたものである。そして今はもはや高度成長期ではない。なのになぜ多くの学生が、大きく安定的な「良い大企業」に就職しようとするのだろうか。それは大企業に入れば「楽で安定的な生活が得られる」という「迷信」が、今でも日本社会に根強く残っており、それが親を経由してか学生達にまで影響を残しているからだ。

もちろん、夢を持ち実力も持っている「センスのある」学生も結構いる。しかし、こういう人達はもう高校時代に、自分の夢を叶えるために起業したいとか、海外の大学に行ってグローバルな企業で活躍したいとか考えており、「いい大学に入って、いい会社に入る」道からはドロップアウトしてしまっている。逆に言えば、こういう「センスのない」普通の学生が今でも「いい大学に入って、いい会社に入る」ことを考えているといえる。

こういう既存のエスタブリッシュされたキャリアパスを目指す学生たちは、狙っているのが「楽で安定的な生活」ということを考えると、ストレートにその志向を言い換えれば、「会社にぶら下がって生きたい、組織にぶら下がって生きたい」ということになる。確かに高度成長期は極端な売り手市場だったので、大メーカーはどんな商品でも作りさえすれば売れた。営業の仕事は、出来上がった製品を流通チャネルに割り当てるだけでよかった。

当時はエアコンが今ほど普及していなかったこともあり、外回りの営業マンの多くは余った時間をエアコンが効いている映画館や喫茶店で過ごしていた。こういうニーズがあったからこそ、平日昼の都心部の映画館や喫茶店もお客が入り商売が成り立っていたことを知る人も少なくなったであろう。とにかく、何もしなくても高度成長の波で商品は売れまくり、予算は達成できてしまったのだ。

だが今はそういう時代ではない。安定した豊かな経済インフラこそあるものの、かつてのような経済成長は望めない。企業が成長するためには、圧倒的なコスト競争力か、独創的な付加価値生産力かどちらかが必要となっている。しかし「波に乗る」ことしかできなかった多くの日本企業は、海外企業に太刀打ちできない高コスト体質と、二番煎じの商品を安く作ることしか出来なかったオリジナリティーの無さの二重苦にあえいでいる。

そんな時代に「楽で安定的な生活」を日本の大企業に求めるのは、お門違いというものではないか。それではまるで、大企業が打出の小槌を持っているので、そこから分け前はいくらでも貰えると未だに勘違いしている日本共産党の主張のようだ。しかし、組織というのは元々そういう甘えを許すものではなかった。組織に対し個人が応分の貢献をするからこそ、個人が分配に預かれる。組織というのはそういう個人の集まりではなかったのか。

最初の会社組織といわれているのは、大航海時代の「東インド会社」である。極めて危険な東国への航海は成功率が低いもの、もし成功すれば極めて大きな利益を生んだ。まさに命を賭けたハイリスク・ハイリターン。だからこそ、金はないが命知らずの猛者に、ポートフォリオ的にハイリスク・ハイリターンの投資への余力がある豪商や王侯貴族が投資し、冒険家たちは命を賭けた文字通り一生一代の旅へと船出できた。

まさに、投資家は資金を、冒険家は命を、それぞれリスクをとって賭けたからこそ、それぞれ得られた果実の分配に預かれた。これが会社の原点である。会社という組織は、そもそも「入れば一生楽ができる」ものではないのだ。それが、現世御利益の世界である日本のそれも高度成長期には、会社にさえ入れば、大きな組織にすがって甘えて、何も仕事しなくても楽においしい生活ができるという甘えの世界に変わってしまった。

自分を知り、自分ができる範囲で、自分の可能性を追求すれば、それなりに道は拓ける。楽ではないかもしれないが、自分が生きてゆくことはできる。それが、本来の人生である。生まれてきたことは因果であり、現世は苦痛なのだ。しかし、その苦痛に耐えつつ、自分が背負っている可能性をきちんと実現することが、人生の意味なのである。それをしっかり見つめ、それに従順に生きるのであれば幸せが来るであろう。多くの宗教に於て、今生きていることの意味はこういう文脈で捉えられている。

このように、人生というのは何かにすがるものではない。自分の足で立って、自分の足で歩いてはじめて、生きている意味を感じることができる。人類が生まれて百万年以上、常にこういう悟りを繰り返してきたからこそ、人類は進化してきた。何かにすがって甘えて生きてゆくことができた日本の高度成長期の方が、人類史上特殊な時代だったのだ。そして、そのような時代ももはや終わりを告げた。

才能を持っている人間は、才能を生かすべく努力しろ。必ず道は拓けるであろう。その一方で才能のない人間は、努力しても仕方ないそれより。今の自分に満足することを知るべきだ。それは我慢することではない。足るを知ること、すなわち高望みせずに、今のままでいることの幸せを知ることが必要なのだ。AIを越えるクリエイティビティーを持つ人間と、コンピュータのように言われた通りマジメに生きるしかない人間との生き方の境は、ここにあるのだ。


(18/03/16)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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