忖度と印籠





昨年から引き続き「忖度」が流行語となっている。ここに至って問題の構造が、忖度の権化ともいえ霞が関の官庁の体質に基づくものであるという疑惑が強まってきた。これとともに、権威の機構における「忖度」とはどういうものかをきちんと理解しなくては、問題点がどこにあるのかからして把握できないものとなってきた。そこで、経験してきた範囲ではあるが、「忖度」のメカニズムを分析してみたい。

マスメディアやジャーナリズムが紋切り型の捉え方しかできないのは、ある意味彼らが「タテマエ」の世界の中でしか生きられない存在である以上仕方がない。今や誰も期待していないし、信頼していないからこれはどうでもいい。しかしそれ以外の多くの人達も、こと「忖度」については、そのポイントを捉えることができないでいる。それは、忖度が生じるのは、リーダーとフォロワーの関係の中においてであることに由来する。

官庁や大企業、軍隊などといった組織おいて起こる「忖度」は、強力なリーダーシップを持った大物トップリーダーと、小賢しい中間管理職の間で特徴的に生じる。しかし多くの日本人にとっては、そういう構図の中に身を置いたことがない。経験のある組織は数人から十数人というのがせいぜい。軍隊でいえば小隊レベルである。ここにはリーダーはいても直接采配し、マネジメントラインがあるわけではない。

すなわち、リーダーといってもトップリーダーではなく、実務の指令しか行わない軍曹レベルの上級下士官しか知らないのである。こういう環境では、今問題になっているような「忖度」の問題が発生することはない。あるのは、現場がリーダーに気を使ったり、ちょっとお世辞をいってヨイショするぐらいのことである。これは、人間関係上どこにでもあることであり、忖度などではない。

同様に、マネジメントラインのある大組織の中でも、トップリーダーに気を遣ったり敬意を表したりするのは、忖度ではない。たとえば、社長や役員にむかって敬語を使うのはあくまでも礼儀の問題であり、忖度とはいわない。敬語を使ったからといって、なにか特別なメリットがあるわけではなく、相手に対する自分の気持ちを言葉に表しているだけだからである。一般の中間管理職がトップに気を遣うのは、せいぜいこのレベルである。

また、トップリーダーの心中を察するという意味では、たとえばこういう例が考えられる。異業種との提携で、A社・B社・C社と3社の候補がある。トップの立場としては対外的には中立を保つ必要がある。そこでCEOは3社を平等に扱っているが、実は相互の補完性を考えるとA社が最適と考えているのがわかった場合、それに合わせた評価基準・採点基準を作成するというのは有り得るが、これも客観性が担保される範囲での気遣いである。

さて問題が起きるのは、中間管理職にある人間が「極度に権威主義、かつ、極度にズル賢い」場合である。権威主義だけでアホなら、単なる「米搗きバッタ」で上にヘイコラ、下にイバるというだけで中身がなく、作業効率を落とす要因にはなるものの、組織構造を揺るがす問題とはならない。狡賢いだけなら、そこで起きるのは、私的流用や架空伝票、バックマージンなど金がらみでのトラブルが大部分である。

では、権威主義とズル賢さが重なると何が起こるのか。大体に於てトップリーダーは、現場リーダーから上がってくる事業提案に関しては、コンプライアンスや企業の社会的責任の問題が起きたり、ブランドの著しい毀損が起きるリスクがあったりするのでなければ、提案者のもっている責任と権限の範囲で、すでに与えられている経営リソースを利用して実行するのであれば、ほぼ「やりなさい」という返事をする。それは、組織に責任と権限を委譲している以上、当然の答えである。

権威主義とズル賢さ併せ持つタイプの中間管理職は、トップに対してはひたすら平身低頭し、「ご説明した範囲内で粛々と事業を進めます」という従順な態度を示す。しかし、一旦OK取ってしまうと、こういう輩は豹変する。今度は自分の部下に対して、あたかも自分が社長のような態度で、トップに対して説明してもいない自分が勝手にやりたかったことを、まるでそれがトップからの指示であるかのように命令するのだ。

百歩譲って事業の大枠でOKを取ったのは事実だが、具体的かつ詳細な内容については全く説明していない。実はそれらの事項は自分勝手に決めたものであるにもかかわらず、殿上人が命令した内容であるかのように指示する。こうやって、自分が勝手にやっている内容を、勝手にトップの命令のように装い権威付けして正当化するのである。トップからは細かい指示がなく、その事実を他の誰も知らないのをいいことに、自分の声を「天の声」にしてしまうのだ。

特にこの傾向は、ラインの上下関係が明確に規定されている官庁において強く見られる。これで思い出されるのが、関東軍の暴走である。旧帝国軍隊は、基本的には官僚組織であった。どの国でも平時の軍隊は官僚組織にならざるを得ないが、有事になっても官僚組織モードをやめられなかったのが帝国陸海軍だったというのは、名著「失敗の本質」を著した野中郁次郎先生の慧眼が見抜いた本質だ。

まさに、権威主義とズル賢さを併せ持った官僚組織だった関東軍は、明治憲法下でも天皇が直接政治的命令を下せないことを熟知していた。このため、中央からの指令を拡大解釈や換骨奪胎して自分達の都合のいいものに読み替え、それを天皇からの命令と偽って部隊に指令し作戦行動を行った。内地から離れていたため、陸軍中枢も他部隊等を動員して牽制を掛けられない状態にあったため、野放図に暴走して行ったのだ。

問題になる「忖度」とは、このような「上に対する低姿勢」と「下に対する架空命令の強制」を、トップの権威を借りることで融合させ、手下の組織を自分勝手に動かせる「独立愚連隊」化してしまうことなのだ。政治家の権威を借りて官僚が自分達の利権作りに暴走するのはもちろん、企業でもファウンダーや中興の祖の権威を利用して、自分勝手な命令を権威付けして暴走してしまうことも良くある。

そう「忖度」の問題とは、「黒・助さん」と「黒・格さん」が黄門様に取り入って、自分達のプライベートの時にも「葵の印籠」を持ち歩かせてもらえるようにし、事あるごとにその印籠を取り出しては、「黄門様の御意志」だと称して、自分達がオイシイことをやりまくる状態のことなのである。ある意味、この体質は日本人誰もがある程度持っているものなのかもしれない。だからこそ「水戸黄門」があんなにウケ続けているのだろうか。


(18/03/30)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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