ゴネ得に「No!」を





この数年間は、野党各党は「反安倍首相」しか活動目標がない状態にある。しかし若者層を中心に内閣の支持基盤が厚いため、首相の政治・外交・経済等の政策においては反対を唱えるだけの材料が乏しく、ほとんど「モリ・カケ」問題しか取り上げてこなかった。その結果「モリ・カケ」問題に関する情報が深掘りされ、その実態は官僚が内閣の権威を借りて勝手に利権や実績を作っただけのことであることが顕になってしまった。

反対のための反対として「モリ・カケ」問題一点集中で押してきた以上、そのメッキがはがれて化けの皮の下の中身の無さが露呈したとしても、振り上げた拳を下げたのでは自分の非を認めることになってしまうので、退くに退けなくなってしまっているというのが今の野党の実態である。この結果、今は批判のための批判には全く意味がない時代であることまで露呈してしまった。

もともと55年体制の時代から、社会党や共産党といった野党は「批判するだけ、反対するだけ、ダメ出しするだけ」といわれてきたし、政権を担う責任政党に対し無責任に反対するだけの「無責任政党」と呼ばれてきた。しかしそれでもそれなりの存在感があった。それは高度成長の時代なら、「ゴネ得」が成り立ったからである。それは経済が右肩上がりで、何もしなくても収益が増大する時代であったからだ。「ゴネ得」のためには相手の足を引っ張ってみるという「戦術」も成り立った。

そういう時代だからこそ、「ウルサいことをいうヤツがいるなら、金を渡して黙らせよう」という発想が広がることになる。当時の日本的経営は売上至上主義が特徴で、経営者の頭の中には「利益」という概念がなかった。そこでキャッシュフローが潤沢にあるなら、税金で持っていかれるより、うるさいヤツにバラ撒いて黙らせるのに使っていった方がいいという発想を受け入れる素地があった。そこから「企業は騒げばバラ撒く」という「ゴネ得」が生まれた。

今では反社会勢力と認定されてしまったが、当時は「総会屋」という人々がいた。一株株主とかになり、「金を出せば企業側の提案に賛成する「与党総会屋」になるが、出さないと総会でゴネまくる「野党総会屋」になるぞ」と企業を脅す。そうすると企業はあっさりお金を出す。その内つき合いが日常的になり、日頃から会社の顧問として金を貰ったり、総会屋が出す「機関誌」を高い金で購入したりするようになった。

「野党総会屋」という言葉が生まれた経緯が示すように、政治における「野党」の発想や行動も全く同じである。労働組合もまた同じ。反対することが目的だったのだ。当時はゴネれば金が出てきたので、反対のための反対も決して無意味というわけではなかったのだ。しかし今や無い袖は振れない時代になった。ゴネてみたところで、無からは何も出てこない。反対のための反対は、今やまったく意味がない。

だが、反対すること自体を目的化してきた組織は、戦略目標がないのでそこから抜け出ることができない。日本共産党が高度成長期の記憶から抜け出せず、馬鹿の一つ覚えのように、「大企業が」「高所得者が」と繰り返しているのがその証拠である。感情的な「反安倍首相」は唱えても、安倍内閣の政策を批判して、それ以上の望ましい結果を生み出す対案の政策を提案できないのはそういう構造的問題があるからだ。

そもそも組織全体、国全体で一つになり、みんなで前向きに力を合わせなくては、一寸も前に進めない時代なのだ。若い人ほど「無い袖は振れない」ことも、「力を合わせなくては前に進めない」ことも良くわかっている。仕事をサボっていても予算を達成でき、毎年確実にベースアップがあった時代を過ごした今のシニア世代だけが、能天気に無責任な野党をいまだに支持しているのだ。

そもそも批判は秀才と相性がいい。課題に対してキチンと答えを出すためには、今までにない発想をしなければならないことも多く、創造性やヒラメキが必要とされる。勉強した知識だけでは、AIのように過去に解決事例のある問題にしか答えを出すことができない。しかし、批判は知識と理屈だけでいかようにもできる。だから、秀才は批判が得意である。やる前・起こる前から批判して逃げを打つのは、官僚の得意技ではないか。

相手の主張に反対するのが目的ならば、相手の繰り出すロジック一つ一つにいちいちもっともらしい文句をつければいい。そもそも意見などというのは相対的なものなのだから、過去のいろいろなオピニオンを知っていれば、その中から反証に聞こえそうな意見をもっともらしく語れば充分批判はできてしまう。ほとんど考えなくても、知識の中から理屈を拾い合わせてつなげるだけで、反論はできるのである。

ある意味、官僚と野党は同じ穴の貉である。そういえば件の「モリ・カケ」問題に関しては、この問題の本質が官僚の体質にあることが明らかになった後でも、野党は官僚を責めようとはしない。この事件の本来の問題を追及するのであれば、ここに至って明らかになった官僚の体質そのものを追求する必要がある。この両者は21世紀の今となっては、日本に要らなくなった存在の代表。ここで一気にまとめてお払い箱になってもらいましょうか。


(18/04/06)

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