会議で注意すべき人達





自分で事業をはじめてみると、大企業の会議ほど、単なる責任逃れのためのアリバイ作りで、目的に対して非合理的で非建設的なイベントはないことを改めて思い知る。自分で腹をくくって責任を取れば一日でできる作業も、責任の存在を曖昧にするための「稟議」のために一週間も十日もかかってしまう。日本企業の生産性の悪さの根源は、この無責任を正当化する組織構造にある。

そういう意味では、中央官庁の官僚組織がその権化である。このところ、「無責任のための組織」としての官僚機構の虚構性・浅はかさが暴露されるような事件が続いていて、ご同慶の限りである。こういう日本的無駄の象徴が会議であるのなら、会議の場での行動をよくみていれば、生産性を下げている張本人が誰であるかはくっきりと浮き彫りになるはずである。今回は会議の中で、そのような「問題児」を見分けるワザについて見て行きたい。

会議で一番ウザい人間は、当たり前のことを声高に叫ぶだけの連中である。自分がそこで発言することだけで、自分のプレゼンスが上がると勘違いしている人達だ。しかし、こいつらは単にアホなだけ。会議の効率的な進行のためには極めて障害になるが、意識的に悪いことをやっているわけではない。それ以上に、責任能力のない人に罪を問えないのと同じで、彼等の責任問題を問うと、こういう輩を出席させた方の責任が問われかねない。

ということで、これは今回の分析の対象ではない。ここで追求しなくてはいけないのは、さらに困る存在として、本来言うべきではないことを主張したがる人達である。こういう連中こそ、組織に甘えて食い物とし、日本社会の生産性を世界水準より著しく劣るものとしているのである。そしてそういう奴等こそ、エリート面していい思いをしているのである。これを許さずして、どこに日本の未来があろうか。

まずは相手の足を引っ張るために、ネガティブな牽制をしたがる人達。これは秀才に多い、いわゆる評論家タイプである。相手の意見に対し批判しか言わず、とにかく新しいことをやらせないようにする。野党を見てもわかるように、自分にやる気なく、またやる能力がなかったとしても、他人のプランに否定的な意見を述べるのは極めて簡単である。それがどんなに例外的で特殊な例だとしても、「こういう迷惑を蒙る人がいる」といえば、簡単に相手に反論できる。

もともと何かを行う時、それにより恩恵を受ける多くの人がいる一方、特定の人に不利益が生じてしまう場合がある。道路を拡幅すると、車道の渋滞が解消し、歩道の安全性が高まるなど、その道を利用する多くの人にとってメリットが生まれる。しかし、そのために立ち退かなければならない住人がいることも確かだ。そのような場合は、だからといって中止するのではなく、不利益を蒙る人に対して補償など充分な対応をする必要がある。

だがこういう人は全体最適を考えず、ただ論理上の武器としてのみ「不利益を蒙る人」を利用している。新しいことをやると、自分にリスクや責任が生じるのがイヤだから逃げているだけなのだ。官僚組織や日本の大企業が新しいことにチャレンジできないのは、この「秀才の事勿れ主義」が広く蔓延しているからである。上司とは、自ら責任を取りどんどん部下にチャレンジさせるのが本来の姿であり、こういう無責任な人間を学歴と年功だけで役職に就ける慣習が日本をダメにした。

このタイプなら、マトモに正面切って議論を始めれば相手の反対意見を論破できるので、まだ対抗措置がとれる。大体自分に責任が来るのがイヤなだけなので、「何があってもこちらで全部責任を取る」ことを宣言してしまえば、それ以上は追ってこない。とにかく面倒なことがイヤな人達なので、こっちが自己責任で勝手に進める分には、ワザワザ邪魔をするほどの積極性は持ち合わせていないからだ。

一番タチが悪いのは、もし何かがあったとしても、自分に責任が来ないように予防線を張る人達だ。表面上はこちらの提案に対して「いいことなので、どんどんやってくれ」という態度を取る。その一方で、何か問題が起こった時には自分達に責任が来ないように、自分用のセーフネットというか、予防線を張りまくるための発言をちりばめ、それを議事録に残そうとする。免責特権を得るためだけに発言をしているのだ。

特に官僚で出世している人達には、このタイプが多い。表面切って反対するどころか、口先では「いいですね、どんどんやってください」とヨイショする。これを真に受けて、踊らされてしまう人も多い。しかし、その実は「どうせ失敗するだろうし応援はしない、ただまかり間違って成功したら『私が応援したから成功した』」と、逃げを打ちつつ、おいしいところは貰おうと虎視眈々と狙っているのだ。

民間企業のマネジメントでも、金融機関とか秀才エリートの官僚タイプが出世する組織では、こういう連中が大手を振っている。それでも高度成長期は、意外と成功例があったし、その場合には現場も「何もやってくれなかったけど、上司にも花を持たせてやれ」という気持ちがあったから、それがウマく廻っていた。この悪習が今でも続いているのが、なにより日本社会を衰退させた理由である。

そう考えて行けば、結論は明白だ。大企業はいらない。秀才はいらない。気の利いたヤツは自分でリスクを取って起業しろ。資金を出してくれる人や組織は、世界にはいくらでもある。面白ければアイディアだけでも金は出てくる時代だ。大きな組織は、組織にすがらなければ生きていけないような人達の集団になればいい。こちらは、足を引っ張る気も、責任を押し付ける気もない。互いに干渉するな。大事なのはそれだけだ。


(18/05/04)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる