けじめをつける



国旗・国歌の法制化を図る国旗・国歌法案が成立した。この問題は、すでに何度か触れているように、日の丸、君が代のイメージ論ではない。いままで曖昧な状態で、各人が勝手に我田引水の解釈をできる状態にしておいたのがいけない。もし君が代が嫌いなら、国歌を法制化した上で、それをどう変えるかというキャンペーンを張るべきだろう。曖昧なものを曖昧なまま議論しても水掛け論にしかならない。これでは何も建設的なものは生まれない。

こういう無責任さは、日本人のもっとも悪いところだ。きっちりとけじめをつけることなく曖昧なままほっておいて、みんな自分勝手にやりたい放題。ヒトが見ていなければ、こそ泥だって、強姦だって平気という、傲慢で自分勝手な性格も、けじめをつけないところから来ている。こんな性格の悪い人間は日本人ぐらいのもの。国際社会で日本が信用されないのもこのためだ。

国旗・国歌については、確かに今まであまりに曖昧だった。曖昧だから、戦前の軍国主義のイメージを引きずるし、それをよりどころにする人達がでてくる。そういう人にとっては、より軍国主義のイメージが強いほど自分にとっては都合がいい。こうやってイメージは勝手に強められ、再生産される。ところで国旗・国歌の軍国主義イメージをよりどころにしていたのは、右翼ではなく、軍国主義反対を唱えたい左翼の方だったのは、冷戦体制が崩壊した今では明白だ。

今からその政策を振り返ってみてみればすぐにわかるが、本質的により民主的かつ社会主義的だったのは、55年体制下では官僚と自民党が一体となった「体制側」の方だった。実は農地改革以来のこの「悪平等」が、今の社会矛盾を生んでしまったのだが。だからこそ、「左翼」の側はバーチャルな「敵」を作って、そこへの対立感を煽らなくては自らの存在をアピールすることができなかった。だからこそありもしない軍国主義の残映をでっちあげ、それを後生大事にしてきた。ほっとけば人々は軍国主義になびくという考えかたは、よほど自分がかくれ軍国主義者でなくては出てこない発想だ。

これは、同じように何かに反対することでしか自分のアイデンティティーを語れない、「良識派」「知識人」「進歩派ジャーナリスト」にも共通している。確かに何かに反対してみるのは、ニヒルでスタイリッシュに見えるものだ。だが、否定してみたところでそこに代替案の提案がなければ、タダのマスターベーションだ。そこで彼らもありもしない軍国主義のイメージを利用し、強い敵のように見せかけることで、反対するだけで意味があるように見せかけてきたのだ。

国旗・国歌法のもっとも評価すべき点は、国旗も国歌もきちんと法制化してはじめて、それがなにものであるかきちんと定義できるという点だ。きちんと定義し、それを明確に宣言することは、今までの日本はもっとも苦手としていた。曖昧なミソギですまし、曖昧なままにしていた。君が代は、戦時中の「君が代」ではないし、日の丸は軍国主義の「日の丸」ではない。少なくともこの法案においてはそういうポジショニングを明確にした。まずそこを評価すべきだろう。

だから日教組が、この機におよんで国旗掲揚、国歌斉唱に反対しても、なんら支持・共感を得ることはない。彼らの組織防衛の論理として、国旗・国歌が軍国主義の象徴であってほしいのはわかるが、もはやそうは問屋が卸さない。真の教育者であれば、日の丸・君が代から古くさく危険な軍国主義イメージを払拭し、誰もが平和日本の象徴というイメージを持てるようにすることこそ勤めなのではないか。まあ、そもそも教育者としての自覚がないから日教組なんかに入るんだろうから、そういう期待自体が無理なのはじゅうじゅう承知だが。

アジア諸国の日本に対する不信感、いわゆる「軍国主義カード」も、日本のこのような甘さを見抜いた上で政治上の武器となっている。国際政治では北朝鮮の例をひくまでもなく「ポーカーフェイス」が駆引の道具となることも多い。しかし日本のあいまいさは、マイナス面しかない。あいまいなまま安易な謝罪でゴマかすのでは、いつまでたっても信頼は得られない。きちんと定義や意味合いを明確にした上で、謝罪すべきものはするし、肯定すべきものは主張する必要がある。すべては、はっきり定義することから始まる。

ぼくの意見としては、対アジア侵略やその被害については責任を明確にし、きっぱり謝罪すべきだが、対連合国の戦闘については日本自身が列強の被害者であることを明確にすべきだと思っている。悪いのは近代西欧文明とそれを支えるキリスト教のメンタリティーだ。今でもアジアが一丸となってアメリカの横暴を許さないためにタチあ上がるべきだ。これを主張するためにも、第二次世界大戦で日本がやったことを曖昧にせず、きちんとけじめをつけることが必要だ。

そういう意味では、野中官房長官の靖国神社のポジショニング見直しは当を得た提案だ。その位置づけや意味づけが曖昧なままだから、戦前の軍国主義を引きずっているようなイメージを持たれる。戦没者の慰霊というだけなら、どこの国でもやっているし、悲劇をくりかえさないというスタンスを持つならば、平和主義的なものにもなる。きちんとどういう存在かを明確にし、不必要な誤解を招く要素が入り込まないようにけじめをつけることがここでも重要だ。支持率が高まってはいるが、これらの問題にウマくけじめをつけられれば、将来小淵政権はこういう混迷の時期に対するリーダーシップが評価されるようになるかもしれない。




(99/08/13)



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