立ち位置を読め





「空気を読むこと」以上に「立ち位置を読む」ことは、人間関係においては重要である。特に本来の組織行動を図る上では、「立ち位置」がわかっていない人は足を引っ張る存在でしかない。現代サッカーでフォーメーションプレイを目指しているときに、ガキの授業のサッカーよろしく、皆が皆我先にボールに群がろうとしたのではまるでゲームにならない。自分の立ち位置を知り、その役割を果たすことこそチームプレイの基本である。

当然、企業をはじめとする組織においても、チームとしてのパフォーマンスを極大化するためには「立ち位置を読む」ことが必要になる。この場合の「立ち位置を読む」とは、自分の能力を知ることである。近代日本においては、「追い付き追い越せ」が目標だったので、上意下達型の組織が多くヒエラルヒーがしっかりしていた。このため、自分の立ち位置についてそれほどコンシャスにならなくても、言われたことをやっていればよかった。

しかしグローバルレベルでは、そのような能天気な上意下達な組織は極めて例外的である。一人一人がモノを考えて行動することで、頭数の足し算以上のパフォーマンスを上げようというのが、グローバルな組織である。もちろん、全てのメンバーが単独でもハイパフォーマンスを上げるスーパースターにより構成された「ドリームチーム」なら、相互に果たすべき立ち位置を即時に理解し、指示がなくても理想的なフォーメーションを瞬時に構築できる。

しかし、一般の組織においてはそんな理想的な編成は困難である。優秀な人材もいれば、ちょっと足りない人間もいる。そういう中で組織のパフォーマンスを高めるのが、組織運営の極意である。上意下達型なら命令さえすれば済むのだが、それでは高能力を発揮できる人材の活用を図ることができない。上意下達型でない組織においては、能力が高い人間はその発言や存在感は極めて高く評価される。その一方で、言われたことをやるだけの人間の評価は低い。

上意下達型でない組織のパフォーマンスを高めるには、能力が高い人間と、言われたことをやることしかできない人間を峻別し、この両者を適材適所で使うことが必須である。本当の意味での「空気を読む」ということは、自分がこのどちらの人間であるかを知ること、すなわち「立ち位置を知る」ことである。自分がその場で発言してもいい、あるいは意見を言うことが求められている人間なのか。それとも当たり前のことを声高に叫ぶだけの、みんながドン引きするウザい人間なのか。それを知って行動することが求められる。

かつては、場の空気を読んで「忖度」し、「ここでこういうことを言うのは憚られる」という「マナー」が共有されていた。新人が「マナー」を知らずに空気を読まない発言をすることもあったが、それは「これを機会に勉強しなさい」とばかりに笑って済まされた。当然、「マナー」はその集団、空間によって異なる。その一方で、いつまでたっても場違いな発言をしてしまう人は、ウザいヤツとして鬱陶しがられることになる。これによって、ウザい人間がつまらない発言をすることが防がれていた。

もっとも集団における「マナー」は両刃の剣である。体育会の非レギュラーの集団のように、憂さ晴らしのために年功序列だけを重視する集団では、あえて非合理なことを後輩に押し付け守らせるのが「マナー」となっていた。これは自己満足でまったく意味がないが、この「マナー」はそういうものばかりではない。全体のレベルが高い集団が、そのレベルをキープできるのに繋がるのであれば、「マナー」は全体の底上げにつながる。

たとえば、高度にアカデミックな学者の集団などでは、当然のように読んで理解しているのが当たり前の原著とかが「マナー」として共有されていた。そのレベルの知識や教養がない人間は、少なくともアカデミックなコミュニティーのメンバーとしては認められないのである。鉄道とかミリタリーとかのマニアでも同じで、「このレベルは知識として当然知っていて当たり前で、それを知らないのは仲間には入れない」という暗黙の「マナー」が、全体のレベルアップを支えていた。

こういう面があるからこそ、かつてはある種この「マナーの学び」が人間的成長そのものであった。いわば外の人からオブザーバーとして半分中の人になり、そこからさらに自己研鑚して正式にメンバーとなれる。昔は麻雀とかでも、メンバーの仲間内に加えてもらえるまでには、長い道のりが必要だった。その分、メンバーとして認められたことは即あるレベル以上の実力を備えていることを意味した。

しかし、インタラクティブ・メディアが登場してからマナーを学ぶ機会が失われ、学ばないヤツが大手を振って街に溢れるようになる。誰でも、アプリを起ち上げさえすれば、メンバーに成れてしまう。生身の人間のコミュニティーのように、その人間の品格やレベルを問うことはない。悪貨が良貨を駆逐するで、こういうインタラクティブメディアに馴れてしまった人間は、一般社会でもマナーを無視した行動をするようになる。

「マナー」を知らず、自己研鑚をしない人間が、つまらないことをエラそうに語る。これが炎上の主因である。炎上の原因を作る人も、それを叩いて煽る人も、わかっている人から見ると自分の浅墓さを吐露しているだけに見える。しかし、目糞鼻糞の関係だからこそ、お互い「自分の方がまだマシだ」とばかりブービーマッチを必死に行う。最下位か、そのひとつ上かなんて、当人は必死かもしれないが、優勝者から見ればほとんど同じで差などない。

インタラクティブ・メディアができる前から、コミュ障気味に自分の立ち位置も考えずにワガママだけ叫ぶ人達はいた。革新政党や「リベラル」を自称する人達が典型だろう。ネット上のパヨクとかは、その流れを汲んでいる。本来インタラクティブメディアは、見たくないものは見ないで済むようにできているのだが、なぜか彼等の書き込みは見たくない人にも見えてしまうことが多い。まあ、なるべくみんなに見せびらかしたいように書き込むし、仲間も無意味にフォローして拡散するので、困ったことに見えてしまう。

思想信条の自由は極めて重要なので、彼等が何を信じようと全く自由だし、私は興味もないし干渉もしない。しかし、見たくない人に強制的に見せるのは、女性にイチモツを露出する変質者と変わらない。それは思想信条の自由の敵、犯罪行為である。本来、インタラクティブ・メディアにおいては「見たくない人には、強制的に見せないようにする」のが礼儀なのだが、彼等はリテラシーが低いのできちんとした使い方ができないのだろう。

そう言う意味では「わがままを言う自由」というのは、実は責任のないモノにだけ与えられた権利なのだ。それは責任がある立場、リーダーシップを取らざるを得ない立場に立ったことがないから言える勝手な発言である。史上最低の首相として名高い菅直人元首相の政権時の無責任さが、市民運動上がりにはリーダーシップは取れないという社会実験になったのは、日本人にとっては大きな不幸だったが、人類的には貴重な経験であったといえる。

無責任な人がリーダーになるというのは、当人にとっては実に幸せなことである。本来組織を代表したり、責任を背負っていたりすると、思い立って吐き捨てるような発言はできない。まあ、最近は高級官僚やサラリーマン社長でも無責任な態度を取る人が多いのも確かだが、これも同じ穴の貉である。本来リーダーとはあらゆるステークホルダーのことを考えて、最適解を出す人でなくてはならない。これもまた、自分の「立ち位置」が解ってない最たる例だろう。

結局は、人間の器なのである。器の無い人間に、器以上のパフォーマンスを求めても無理である。本人は幸せかもしれないが、周りにとっては余りに不幸である。器がないのに、勘違いしている人間は、組織のガンである。それを排除するのではなく、適材適所で使えるか。そのカギは、器のある人間をきちんと見抜き、その人材を重用する組織運営にある。高度な能力のある人間と、無責任で器の無い人間。この両者を峻別しうまく使い分けることが、21世紀の組織運営には必須なのだ。

もっとも、そのためにはそれ以上の器のある人間が判断しなくてはいけないというジレンマがある。無能な人間が、年功だけで跋扈できるのが日本型組織である。やはりここは、あらゆる組織をいったん解体した上で、本当に組織が必要な領域のみあるべき組織を新たに構築し、それ以外の領域においては個人の資格で参加するメンバーを組み合わせた「プロジェクト・チーム」として運用する方が手っ取り早い。日本が生き残る道はこれだ。


(18/05/18)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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