努力は手段





天才でも、自分のやりたいことを現実のものとして実現するには、それなりに努力しなくてはならない。ただ天才にとっての勉強や努力は、頭の中にあるゴールイメージを実現するための手段でしかないのは間違いない。自分の頭の中、心の中にあるモヤモヤしたものを、現実のカタチとして現したい。これが創作意欲である。やりたいことがあるからこそ、そこに足りない技術を会得することは重要である。

芸術作品の創作でいえば、作品のイメージは頭の中にあるが、それをカタチにするためには足りない表現技術があるという「事実」は当人にとっては非常によくわかる。音楽で言えば、あるメロディーが頭の中に浮かんだ時、それを自分で楽器を奏くことはできなくても、作曲家としてそれを記譜し演奏してもらうことはできる。しかし、それがイメージ通りの仕上がりになる保証はない。

それなら、自分で奏けばいいのだが、その楽器についてはそれだけの演奏テクニックがなく、頭の中の音を奏き切れない。だからこそ楽器を習得して、イメージとテクニックの差を埋めようと「努力」するのである。その目標は、頭の中にある完成形を現実のものとして実現すること。頭の中に鳴っている理想の音があるからこそ、それに少しでも近づき、現実の空気を震わせたいと思う。

努力とは、本来こういうことなのだ。頭の中に完成形がなくては、努力しても全く意味がない。やりたいイメージがなくては、努力の到達点が見えてこない。こうなると、努力することが目的になってしまう。非レギュラーの体育会部員の悲劇がここにある。だからこそ、努力が目的になっては意味がないし、いくら努力をしてもその結果が出なくては全く評価されないのだ。

中には、マイルス・デイヴィスやピカソのように、頭の中にある完成形が、自分である程度見えてくるレベルに具体化できると、そこで制作意欲を一気に失う超天才もいる。彼等の作品の多くが一般の人からは中々理解しにくいものであるのは、ここに由来している。誰でも何を表現しているのか伝わるレベルまで作り込みがされれば、より多くの人がそれなりにそこに込めた情念を理解できることは間違いない。

それが現実としてあり得るかどうかというような高度のレベルの表現を目指しているからこそ、その可能性を具体的に実現できた瞬間に、それ以上の「作り込み」には興味を持たなくなってしまうのだろう。ある意味習作レベルであっても、自分として手応えが感じられれば、それで制作意図は達成できてしまう。習作かも知れないが、それでも作品は作品である。

大仏のような巨大な像を作る場合、彫刻家はまずミニチュアを作って表現したいイメージが実現できるかどうかを確かめることが多い。いわば、このミニチュアができた時点で、イメージは具体化できることがわかってしまい、それから先は自分ではやる気がしなくなるのだろう。まあイサム・ノグチ氏の石の彫刻のように、その先のクラフトの部分は専門の職人に任せてやらせるやり方もあるとは思うが。

逆に制作の意図やモチベーションがわかりにくい習作レベルの作品が多いからこそ、「理解しがたい神秘性」みたいな評価が生まれて後生大事にされている面もあるのかもしれない。このあたりは、まあ微妙なところであろう。いずれにしろ、全ての作品を高い完成度でまとめ上げていったなら、一生涯でトライできる新しい可能性が減ってしまうわけで、やりたいことが多い人は、ここの作品の完成度を気にしてはいけないのかもしれない。

しかし、世の中には自分の表現したいモノがない人が多い。こういう人の方が圧倒的に多い。何かイメージがあったとしても、模倣でしかないことも多い。本当にオリジナルなイメージを頭の中に描ける人は、分野を幅広く取り、どんなに基準点を甘く見たところで、人口比で全体の5%もいないだろう。これは人類である限り、どんな人種でも、どんな時代でもほぼ変わらないと思われる。

そういう意味では、95%の人にとっては「努力は無駄」なのである。努力したからといって成し遂げられるものは何もない。無駄な汗をかいて、エネルギーを消費して、これでオシマイなのである。省エネの正反対、まさに無駄飯食いである。情報化の時代の掟は、これである。無駄に努力しない。その分現状に満足し、無意味な高望みをしない。これが一番省エネだし、一番効率的なのだ。Let it be。あるがままでいいのだよ。


(18/05/25)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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