「謙虚」を忘れるな





自分の足で大地を踏みしめ、「自立・自己責任」で生きてゆきたいのか。それとも権威や組織にすがって身をゆだね、「甘え・無責任」で生きてゆきたいのか。それは個人の自由である。遠慮せずに自分の好きな方を選べばいい。但し、それには条件がある。一つは、他人に迷惑をかけないこと。もう一つはそれによって自分に降りかかった結果については甘んじて受け入れること。

一番いいのは、「自立・自己責任」な生きかたをする人と、「甘え・無責任」な生き方をする人が互いにセパレートされ、相互干渉が最低限になるように棲み分けることであろう。ヨーロッパに行くと、中世からの「旧市街」と近現代の「新市街」とが分かれた都市に良く出合う。同心円状に旧市街の外側を新市街が取り囲むところもあるし、川などで両者が分離されているところもあるが、あの感じである。

まあそれは極端にしても、相互に出会っても干渉しないし、インタラクションも最低限にとどめられるのであれば、混住してもそれほど混乱は起きないであろう。しかし、どうもうまくいかない。それは「甘え・無責任」な人間ほど、誰に対しても甘えたりすがったりしようとする傾向が強いからである。「自立・自己責任」な人間からすれば、それは価値観の押しつけであり、鬱陶しい干渉になってしまう。

もちろん「自立・自己責任」の側でも、こちらのやりたいことの足を引っ張らないのであれば、余裕がある分は多少甘えて来ても面倒見てやろうか、という心の広い人はいる。「自立・自己責任」の人にも、自分の価値観を相手にも押し付けようとする人は存在する。それは甘えて生きたい人にとっては、自分のパラダイスを奪う脅威に見えるかもしれない。このあたりは「お互い様」なので、とにかく「価値観を押し付けない」ことが大事なのだ。

さて、その上でコンフリクトを最小限にとどめるためには何が必要なのだろうか。それは「思いやり」であろう。誰かに支えてもらったり、すがって生きていきたいのなら、一歩下がって「ありがたさ」を感じていることを、支えてくれたり、すがらせてくれる人に伝えなくてはいけない。それが人の道というものだ。だが「甘え・無責任」な人達には、なぜか相手に対する思いやりや感謝の気持ちを表すのが下手だったり、甚だしくは持っていない人がよく見られる。

人間関係には「等価交換の原則」が大事である。何がしかのメリットを相手から貰っているのであれば、一方的に貰うだけでは礼に反する。自分からもメリットを相手に与えられるのなら、対等の関係になる。しかし能力などの問題から、それができない場合も存在するだろう。それなならせめて感謝の気持ちを相手に伝えることが最低限必要だ。メリット同士の交換が出来なくても、メリットと気持ちの交換ならできるはずだ。

ところが、この基本的な人の道がわかっていない人が増えてきている。余りに恵まれた環境の中で育ってしまったので、わがままを言うのが当たり前、自分は相手からいろいろしてもらって当たり前という考え方をする人が、かつてないほど増えている。思うのは勝手なのだが、これが嵩じて相手からいろいろ気を遣って特別扱いされないと、不満に思って怒る人すらいる。

北海道の僻地など補助金の多いところで育つと、バラ撒きが当たり前になってしまい、その内に「自分には当然貰う権利があるんだ」と平然と思うようになるという。残念なことだが、特別扱いされるのに慣れてしまうと、一般扱いされることが許せなくなるらしい。その分横柄になり、周りからは一層疎まれるようになる。

オタク系の即売会などに行くと、限定販売の列などで「手帳」をみせびらかしながら、「何で優先にしない」と喰ってかかる人をよくみる。確かに歩くこともままならない人ならば、何らかの措置を取ることもも必要だが、威勢よく喧嘩を売るぐらい元気があるのであれば、一般と同じ扱いでもなんら問題はないだろう。静かにルールに従っている人の方が多いのだから、こういうわがままを許すことはできない。

インターネットの掲示板やSNSでの困った人も、根っこは同じである。「困ったチャン」はパソコン通信の頃からいた。パソコンやスマホなどの端末に向かって書き込むので、その向こう側に実は「生身の人間」がいることを忘れてしまう人がいるのだ。面と向かってならとてもできないようなことをやったり、書き込んだりしてしまう。人間関係が不得意な人ほど、逆に端末相手だと「やりたい放題」になってしまいがちである。

これも「等価交換の原則」がわかっていないから起こる現象である。発達障害も、本人にその気があれば理性でカバーし、一般人と変わらない社会生活が可能になる。「一方的に受け取るだけは許されない」という「等価交換の原則」を頭に置いておけば、なんとかなる。「ありがとう」が言えればいいのである。やってもらった、感謝の気持ちを返す。これだけで、世の中はウマく廻るようになる。大事にされたきゃ謙虚になれ。これである。


(18/06/01)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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