コミュニケーション力の難しさ





日本人の多くは、「相手とコミュニケーションが成り立つ」ことを前提に人間関係を構築することしか考えていない。しかし、グローバルには「相手とコミュニケーションは成り立たない」ことを前提に人間関係を築くのが原則である。語る方も聞く方もコミュニケーションを成り立たせるための努力を重ねるて初めて、細い糸のような関係性が作れるのである。これは多民族の大陸国家ほど、切実な問題となる。

コミュニケーションが上手いためには、しゃべりやプレゼンテーションといったプッシュ力に長けているだけでは不充分である。相手の言い方が拙くてもその真意を読み取る力がたかかったり、上手く言えないでいる相手を適切にをリードして言いたかったことを引き出すことができたり、聞き手としてのプル力の達人であることも同時に必要である。コミュニケーション力がある人とは、この両方の達人であることなのだ。

日本人の多くが、いくら外国語を「勉強」して覚えても一向に外国人とのコミュニケーションが上達しない原因がここにある。言葉が通じない、礼儀のようなボディーランゲージも通じない、そういう相手の方が世界には多いのだ。グローバルなコミュニケーションの基本は、そういう相手を前にして、どうやってコミュニケーションを図るかということだ。日本人の「外国語の勉強」は、相手がわかってくれるはずだという現実的でない幻想をベースにしている。

その証拠に、日本人でもコミュニケーションの達人なら、語学勉強などしなくても外国人とある程度のコミュニケーションを成り立たせることが可能であるし、そういう事例は結構ある。もちろん仕事をするのであれば専門用語などはある程度覚えることも必要だろうが、これとて「達人」なら勉強するのではなく、相手とコミュニケーションを図りながら、「OJT」でマスターしてしまうことも多い。

日本人にはすぐにマナーを気にする人がいるが、マナーも基本は同じである。マナーとはある意味、仲間同士の甘えでしかない。「外の人」には通じるわけがないし、通じるとも思っていない。実は日本の中だって、東北と関西のように文化のバックグラウンドが違えば、同じマナーが通じるわけではない。企業によってもローカルルールが違うことが多い。合併やM&Aがあると、これが故に大混乱になる。共通のものがあるということ自体が、幻想なのだ。

結局日本の近代の歴史は、西欧列強に対して「追い付き追い越せ」を第一にして突き進んできたため、社会構造や人間性の問題については「目標外」となり、「お上」に責任を押し付けて、気楽な生活を送ってきた江戸時代までの庶民の生活観がそのまま温存されてしまった。そして近代日本の組織は、みなこの甘えを内包するものとして異形の進化を遂げた。日本人の多くは、この甘えにすがって生きてきたのだ。

そんなものは、貧しい高度成長期の儚い夢だ。まだ「追い付く」目標のあった高度成長期は、成長を実現するための方便として甘えが温存され続けることも黙認された。皆が貧しく、その一方で打出の小槌のような金のなる木がある。そうなると「蜘蛛の糸」よろしく、みんなでスネを齧ろうとする。そういう時代なら、おいしい思いを共有することも許され たかもしれない。だがそれは、所詮「昭和の思い出」でしかない。

こういう体質がベースにあるからこそ、日本の大企業はリスクを取らなくてはリターンが得られない時代になると、急に業績がシュリンクする。リスクを取るリーダーは常に責任が伴うが、日本のサラリーマン社長にはそんな肚が据わった人はあまりいない。日本人に外国人とコミュニケーションを取るのが下手な人が多いことと、リーダーシップを取れる人が少ないことは、このように実は同じルーツをもった双子の構造的問題なのだ。これこそ、近代日本150年最大の禍根ということができるだろう。


(18/07/13)

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