犬・猿・雉





左翼・リベラルは少数者の味方のような顔をしがちだが、実は多様性を否定しているので、少数者のアイデンティティーを尊重していない。ではなぜ「我々は弱者の味方だ」という態度を取るのだろうか。彼等は多様な意見を認めず、自分達だけが正義だという全体主義がベースなので、自分達の支持者になるならば「脇に置いてやろう」という発想である。要は員数合わせ。「家来になるなら黍団子をやろう」という桃太郎と同じで自分の手下としかみていない。

左翼・リベラルの党員や知識人は、自らをエリートとみなして人々の上に置き、少数者のみならず、多くの大衆を「啓蒙」の対象として自分達より劣る存在としてみなしている。上から目線で極めて選民意識が高く、実は差別的な思想を持った人達なのだ。だから、自分達の権威を認めまつろうのであれば、それなりの「思召し」と分け与えてもいいぞという発想をしているに過ぎない。

少数者は所詮犬猿雉であり、このスキームを選ぶ限り桃太郎と並ぶヒーローには永遠になれない。20世紀の半ばにはそれなりに勢力のあった、鉄のカーテンの内側の共産主義国において、少数民族やマイノリティーがどういう扱いを受けていたのかを振り返ってみれば、犬猿雉の運命がどういうものなのかすぐにわかる。指導層を支持する限りにおいて、二流市民としてエサを与えてもらう存在なのだ。

多様性を認めるということは、少数者が主役となれる多くのパラレルワールドの存在を認め、それを尊重するということである。こういう左翼・リベラル的なスキームに則る限り、自分達が主役になれる社会構造は絶対に実現しない。少数者の側からしても、どっちの親分についた方がおいしい思いができるかという発想では、永久にマイノリティーの桎梏から逃れることはできない。自助努力の発想が欠けているからだ。

自分達が主役になれるステージ、約束の地を現実のものとして初めて、多様性が担保されるのである。自分達で努力して、自分達の力でそのステージを実現してはじめて、主役になることができるのだ。これは誰かから与えられるものでもないし、ましてや誰かから盗んで実現するものでもない。ところがマジョリティーにはなんとなくもたれ合っておいしい目に合っている人が多そうなので、自分達もそういう思いがしたくなる。

どうやら最大のパラドックスがここに潜んでいそうだ。自分が犠牲者であり、被害を蒙っているのだから、誰かが救ってくれて当然だし、それが当然の権利である。少数者ながら左翼・リベラルに期待する人達のベースにはこういう考えかたがある。こう思っている限り、いくら金を貰っても、いくら贅沢させて貰っても、青天井になり満足することはない。昨日の望みが今日かなったとしても、その喜びを感じることなくスグに現状への不満を感じてしまうからだ。

真の救済とは悟りである。自分で悟りを開かない限り、満足することはできないし、幸せになることはできない。逆に、あらゆる欲望から自由になり、邪な心が消えた時、どんな環境にあろうとも幸せを得ることができる。少数者が主役となれるパラレルワールドを築くことは、少数者自身が悟りを開くことでもある。他人に救済を求めようとする左翼やリベラルの道を選ぶ限り、永久に満足は得られないし、幸せになることはできない。

かつて共産主義国では「宗教は阿片だ」として世界宗教を禁止し、事実上共産主義という宗教に基づく宗教国家を築いた。極めて貧しい人達に、バラ撒きの施しを行い、少なくとも飢えて死なない程度の社会を実現したことは事実であるし、その範囲においては歴史的役割があったということが出来る。中国共産党が、それまでの軍閥のように農民から略奪するのではなく、農民に食料を与えることで支持を集めたのは歴史的事実である。

だが、バラ撒きにより飢えの心配がなくなった人民は、我慢すること忘れてしまう。自助努力をしなくても、誰かが何とかしてくれる。こういう怠惰な人間の本性を視野に入れていなかったからこそ、この宗教は人々に幸せや悟りをもたらすものではなく、かえって欲望を爆発させる結果を生み、自己崩壊してしまった。そんな魔法の打出の小槌など、現実にはありえないからだ。

社会主義・共産主義は、もともとヴィジョナリストであった哲学者マルクスが描いたヴァーチャルな理想社会のあり方である。それは現実のものではなく、そういう理想社会に少しでも近づこうと自ら努力することで人類は進歩するという理念を示したものである。その原点から考えても、被害者意識、負け犬根性を持っていては、永遠に救済されることはない。左翼・リベラルとは、結局この被害者意識、負け犬根性を美化し正当化する屁理屈でしかない。

産業社会のテイクオフ期には、その恩恵の廻り方にタイムラグが出来てしまう。その時間差を是正する範囲においては「バラ撒き」も意味があったし、社会主義・共産主義的な政治運動もある程度意味があったかもしれない。だがそうである以上、バラ撒く方の官僚やそのシステムを効率的に運営するための秀才主義と賞味期限は同じである。その命脈は現代の日本においては尽きたのだ。犬・猿・雉ではもはや生きていけない。一寸法師の桃太郎でもいい。小さくても、脆弱でも、リーダーでなくては存在意義がない時代なのだ。


(18/07/20)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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