ヴァーチャルは心の中に





クリエーティブでイマジネーションが豊かな人は、コツコツマジメな秀才とどこが違うのか。それは現実の世界以上にスゴい世界が、自分の心の中に既に存在しているところにある。心の中のヴァーチャルな世界は、世界観やヴィジョンのみならずかなり詳細なディテールに至るまで緻密に構成されていることが多い。音楽だろうと絵画だろうと小説だろうと「作品を創作する」プロセスとは、この自分しか味わえない「心の中にある世界」を現実の中に構築することに他ならない。

このような心の中の「作品」は、それがある人とない人があり、この両者の間には越え難い壁が存在している。ある意味、心の中の「作品」がある人が天才なのだ。これは努力でどうにかなるものではない。生まれながらにして、現実より大きな世界が心の中にある人がいるのである。そういわれても全くイメージが湧かない人も多いだろう。というより、理解できない人の方が普通だし数も多いのが現実だ。

だからこういう話を聞いてピンとこなくても、それは仕方がない。これはいわば二次元の世界(アニメオタクという意味ではなく、数学的な意味で)に生きている生き物には、三次元の世界が想像だにできないのと同じである。自分はそうなのだと割り切って、無駄な努力はやめるのが良いだろう。その一方で「そう、そう」と共感するところがある人は、心の中に何かを持っている。それを大事にして生きる道を選ぶべきだ。

こういう「天才」達の心の中は、現実の世界の何億倍も豊かなイメージが溢れている。そして、自分が帰属している世界は、現実世界ではなく「心の中」の世界の方なのである。表現者達は、ある意味ヴァーチャルな世界の中に生きているのだ。そしてそちらがアイデンティティーの拠り所となっている。その世界で起こっていることを現実の世界で再現できている人が、アーティストなのである。

その一方で、心の中にスゴいヴァーチャルワールドを持っているものの、それを現実化したくても、自分の能力と時間が邪魔をして、リアルな世界の中に実現できない人たちもいる。天才だからこそ、自分の心の中にある世界を他人にも理解可能な現実の存在とするための「表現技術」をマスターするべく努力が必要なのだ。そして心の中にある「作品」が高度なものであればあるほど、より高度な技術を獲得すべく、人一倍の努力が必要となる。

こういった「心の中にパラレルワールドがある」人たちの持っている感受性は、外側のバーチャルな世界に感情移入するのとは全く違う。ある意味表現者だった90年代までのひらがな「おたく」と、純粋消費者になった00年代以降のカタカナ「オタク」との違いもそこにある。漫画家は、漫画を描く前に電子書籍を読むように心の中で完成されたその漫画を読んでいる。それを紙とインキでコピーしたものを、一般の読者が読む。この構造である。

これはある種、神懸った行為である。表現者自身も、心の中の「作品」がどこからどうして出てきたのかはわからない。まさに降って湧いてくるのである。ここで湧いてきたものが宗教的な「神の言葉」ならば、表現者は宗教的な預言者となるだろう。現実の作品を作るプロセスも、心の中の作品を写し取るだけなので、ほとんどチャネリング状態だったりお筆先だったりするわけである。

古代においては、音楽や絵画、彫刻など今でいう芸術・アート系の創作は、全て宗教と結びついたものとして捉えられ、崇められた。これも技術教育とかない時代においては、、表現行為がある意味神懸りで行われるため、その作品は神が降りてきて作ったものと思われたことを示している。天才とは神の使い。秀才・凡才とは全く違う「選ばれた人」なのである。ではなぜ時代と共に、天才への畏敬の念が失われたのだろうか。

日本は、長らく意志は気高いが、実質は貧しい国だった。貧しい開発途上国に求められるものと、成熟した文化国家に求められるものでは、価値観の基準も、行動の基準も全く異なる。文明開化以降「追い付き追い越せ」を国是としなくてはならなかったのは、帝国主義の時代に列強の餌食とならないための精一杯の努力だったのだろう。そのためには、欧米の先端技術をマネして学び取る必要があり、ここに秀才が重用された理由があった。

成長過程においては、先行者がいてそれをベンチマークして追い付くという目標があった。 まさに「和魂洋才の文明開化」に始まり、高度成長期の「追い付き追い越せ」まで明治以降の日本が100年以上に渡って得意としたやり方だ。しかし、これはカーレースのスリップストリーム走行のようなもので、2位にはなれるが1位にはなれない。その一方で20世紀後半の日本は、貧しい開発途上国から高度成長により成熟した文化国家へと発展できたこともまた事実だ。

だが社会の規範は、未だに貧しい開発途上国だった頃のものから脱していない。結果、日本においては、技術や知識があっても、イマジネーションがほとんどない人ばかりになってしまった。秀才、あるいは技術者としてそういう人が評価されてしまう。確かに、現実世界では具体的に表せるものを優先的かつ定量的に評価するとすれば、そういう「器用」な人の方が評価されやすいのは確かだ。

いつも言っていることだが、ベンチマークすべき対象がある「追い付き追い越せ」の段階であれば、当面の対症療法としてはそういう「秀才」や「器用な職人」を大量生産するやり方もあっただろう。だが、それでは人類の文化はに貢献できない。文化は天才からしか生まれないからだ。これは教育ではできないことである。心の中に、リアルな世界の全歴史よりも雄大なスケールの世界観を持っている人こそ、これからの時代の人類を引っ張ってゆくのだ。


(18/07/27)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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