自慰の自由





どんなエキセントリックな意見だろうと、どんな差別的な意見だろうと、レイシズムな意見だろうと、思うこと、信じることは自由である。それこそが、思想信条の自由、言論の自由の基本であり、唯一の人権の基本である。私も基本的には権利には必然的に義務と責任が伴うという考え方に立っているが、思想信条の自由、言論の自由、つまり「頭の中の自由」だけは、義務や責任を伴わない「神から与えられた権利」と考えている。

だが、それの権利を行使するには一つ条件がある。それは「自分の意見を他人に押し付けない」ということだ。あくまでも思想信条の自由は心の中・頭の中の自由である。社会的な関係の中での勝手な振る舞いではない。そこに他人がいるときには、それぞれの思想信条の自由を尊重し、相手の考え方の中身に対しては一切コミットせず、それぞれあるがままにしておくというのが基本中の基本である。

差別主義者がいてもいい。しかし、平等主義者もいてもいい。それは自分の良心次第。心の中では、どちら正しいということはない。自分が正しいと思うこと、自分が好きで楽しいこと、それを「良し」として自分の信念として信じていればいいのである。これは他人からどうこう言われる筋合いのものではないし、他人にどうこう言っていいものでもない。それぞれの人が、自分の気持ちとして大事にすればいいのだ。

どんなに自分と異なる意見を持っている人間がいたとしても、それぞれ自分の縄張りだけで意見を主張し、相手にその価値観を押し付けなければ、並存できる。存在する空間が異なれば、対立概念にはならない。顔を合わせなければ、どんな違う意見も両立できる。それを無理に一つに押し込むからコンフリクトが起きる。そして、これこそが多様な価値観、ダイバーシティーを実現するために最も重要なことなのである。

しかし、その一方で自分だけが正義だと思っている人がいる。自分が正義だから、違う価値観を許さない。そういう考え方に立つと、相手に自分の意見を押し付けて考え方を捻じ曲げさせることこそ正義の実現ということになってしまう。このような考え方が行き着くところまで行くと、「違う価値観を持つ人間は撲滅すべき」だということになってしまう。その最たるものは、一神教間の宗教戦争であり、「違う神を信じる人間は殺してもいい」いうことになる。

つまり、問題なのは意見の内容ではなく、自分の意見を相手に押し付けようという態度にある。これさえなければ、どんな意見を持つ人間同士も平和に共存できる。同じ空間で張り合うからコンフリクトを起こす。レイシズムでもファシズムでもいい。自分だけで思うには自由である。自分の心の中に止めておくべき「意見」を他人に押し付けたり、他人もそう思うことを強要したりすることが問題なのだ。

どんなエキセントリックな意見も思想も、自分が自分一人で勝手に思う分には自由である。誰にも迷惑はかけないし、誰にも止められない。オナニーで想像する分には、どこの誰をどのように襲おうと自由であるし、犯罪に問われることはない。基本はこれなのだ。どんなに極端でも、どんなに反社会的でも、自分一人、自分の部屋の中でオナニーのように思っている分にはだれにも迷惑はかからないし、自由なのだ。

これを「オナニーの自由」と名付けよう。そういう意味では、人生とは基本的にオナニーなのだ。自分が一人で満足できるかどうか。他人とのインタラクションなどいらない。自分の楽しみは、そこにあるのだ。そういう意味では人間は、一人で生きていくべきものなのだ。他人に甘えるからいけない。一人で生きていければ、どんなエキセントリックな思想があろうとも、どんなエキセントリックな性癖があろうとも、誰にも迷惑はかけない。

これからはヴァーチャルな時代である。リアルは人間関係など、人並みに生きてゆく上では必要ないものになる。その中で平和に暮らせばいいのだ。最低限は他人と接することも必要かもしれないが、一人で楽しめる時間がいっぱいあるなら、そのぐらいは我慢できるだろう。逆に人と人の間をうまくつないで人間関係を構築できる能力は、極めて特別で高く評価される能力となるだろう。

そう、「社会」や「世間」に甘えて楽したり、バラ撒きのおすそ分けに預かったりとご利益があったのは、高度成長期の産業社会ならでは。そんな時代はもう過去のものだ。すでに情報社会に入った以上、そんな考えはアナクロだ。これからは百人百様の自分の世界に篭っていれば、自分のしたいようにできる。現実世界で、どっちが正しいとか言いながら、バラ撒きに預かろうなんて考えていた時代が馬鹿らしくなるぞ。


(18/08/03)

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