アウトローの美学





年寄のヒガみではないが、最近の若者はなんでみんなアウトローになりたくないんだろうか。アウトローの世界とは、法や秩序で守られた実社会の外の世界。全ては自己責任にまかされている。しかしそれは、あらゆる可能性が己の手の中にあることを意味する。忖度もおべっかもなく、ただひたすら実力勝負。知力・財力・腕力、トータルなパワーを駆使して己の可能性を極限まで追求する世界だ。

まさに市場原理である。予定調和の表の世界は、バラ撒きの悪平等で汚染され切ってしまったが、裏の世界は競争原理そのもの。どんな手も使えるし、得られた果実は必ず自分のものになる。これこそ理想的な社会、理想的な環境ではないか。表でも、イノベーションを起こすためには、法や秩序を破ることが必要になる。それなら最初からそんなものはなければいいではないか。

昔マッドマックスという映画があった。あれを最初見た時、自分はこういう世界に生きていたい人間なんだと思った。日本なら戦国時代に生まれたかったものだ。誰も頼るものはない。頼るものは自分の力だけ。合従連衡もあるが、所詮は周りの全ては敵である。しかし力さえあれば、自分が信じる道は全て自由に貫ける。これほど美しいモノはない。これこそ人間が最も人間らしく生きられる世界である。

そもそも私は、誰も信じていない。誰も頼っていない。信じているのも、頼っているのも自分だけだ。母親が極端な人間で、幼児の頃から全く信じられないし、頼れない状態の中で育った。そう、他人を頼る、他人を信じるという経験を持っていないのだ。おまけに一人っ子だったので、所詮この世は一人で生きていかなくては生き残れないということをずっと強く実感し続けていたし、そのための技を鍛え続けてきた。

生き物というのは所詮は利己的な存在である。そもそも生命体というモノ自体、DNAのゴーイング・コンサーンを確実なものとするために生まれ・進化してきたものである。より高度な構造の体や知能を持ってきたのも、起こり得るリスクに対して出来るだけヘッジを掛け、生き残る可能性を高めようとしてきた結果である。そして人間も動物である以上、この桎梏から逃れることはできない。

いや、人間が集団生活・社会生活を行う動物になったこと自体も、最終的には自分のDNAをより確実に未来に伝えるためのソリューションなのである。そうである以上、最後の最後のところでは、この利己的な性質がストレートに顔を出してくる。他人に頼ろうとしても、もはや相手に余裕がなくなった最後の最後では、裏切られる結果に終わってしまう可能性が高いのである。

それならば、最初から他人に甘えず頼らず、全て自分の力で成し遂げる方法を考えるべきである。あるいは他人とコラボレーションするにしても、各ステップごとに細かく成果を出させることで、確実に得るものを得てゆく必要がある。相手を信用していなければこそ、相手の成果を確実に手に入れる安全策を取るわけだし、それならば途中から相手が思い通りに動かなくなったとしても、そこまでのメリットは自分のものにできる。

有名なゾルゲではないが、敵のスパイは組織に取り入って信用を得るために、ある段階までは本来の味方以上にロイヤリティーの高い行動を取る。根本的に相手を信用しない人ならば、この段階までの敵スパイを活用してその成果を得ると共に、ヤバくなった段階で切り捨てるという、おいしいところだけをとことん吸い取る利用法が可能である。これは決して不可能な夢物語ではない。

世界的に見れば、こういう関係を基本にした社会の方が多い。たとえば中国の人は、国や会社といった組織に対する忠誠心がないので、このような刹那的な利害関係を構築しない限り、どちらにとっても不幸なことになってしまう。米国においても似たようなところがあり、米国に進出し工場を建設したメーカーなどが現地の従業員との間でトラブルになることが多かったのもこの理由である。

そう大事なのは闘うこと。それも己の「甘え」と闘うことだ。日本人に依存症が多いのも、この「甘え・無責任」な体質と密接な関係がある。高度成長期は結果的に「甘え・無責任」でも結果が出せてしまった。だがそれはあの時期だけの奇跡であり、夢物語は続かないのだ。今になって、遵法精神で誰かが守ってくれると思っても、そうは問屋が卸さない。一億総アウトロー。これから日本がよみがえるには、日本をアウトローの国にする必要があるのだ。


(18/08/31)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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