信じてはいけない



「サッチー騒動」「東芝ビデオ事件」に続いて、「週刊金曜日」発行のムック「買ってはいけない」のヒットが週刊誌ネタとしてブレイクしはじめた。この本自体は、結局7月にはなにも起こらなかったけどそのまま忘れ去られた「ノストラダムスの大予言」と同じ。それなりの理由をつけて脅し、そこそこ恐怖を煽ると、本というものはけっこうベストセラーになる。書籍のマーケティングとしては伝統的な手法だから、取り立ててどうこういうべきものでもない。こういう本は何年に一回か必ず出てきて話題になるのはいつものことだ。

そもそも世の中過剰に摂取して毒にならないものはない。健康にいいものの代表たるビタミンだって、たとえばビタミンAみたいに体外に排出されにくいものを過剰に摂取し続けると死んでしまう。水だってそうだ。胃下垂になるぐらい毎日飲み続ければ、胃潰瘍や胃ガンの原因になる。もちろん体質があって、そのしきい値は人によって違う。だから、この問題は自分の体質を知って、自分の負担にならないような生活を送ればいいという自己責任の問題につながる。それをとやかくいうこと自体おせっかいだが、それをダシにして人を脅かして金を稼いでいるのは余り勧められたことではない。

マトモに考えればこの問題が自己責任に行き着くのは、いわゆる生活習慣病と同じと考えればいい。体質的には同じでも、痛風になる人ならない人、糖尿になる人ならない人、高血圧になる人ならない人、さまざまだ。こういう病気になるかならないかは、ひとえに本人の自己管理能力にかかっている。自分で節制できれば、病気になりやすい体質でも健康な生活を送れる。しかし、ひとたび酒池肉林に溺れれば、たちまちカラダを壊すことになる。自分が悪い。こういう病気になっても、だれも同情してもらえないのはこのためだ。

確かに世の中、たくさん摂取すればカラダに影響のあるものは多い。ただその影響は人さまざまだ。人によっては、体質等によりかなり厳しい影響がある場合もあるだろう。しかしそれは自分でコントロールすればいいことであって、人がおせっかいがましくどうこういうことではない。ぼくは昔はヘビースモーカーだったが、あるときからヤメようと思ってヤメた。それは好きでヤメたのであって、それ以外のなにものでもない。他人がタバコを吸っている分には別にかまわないし、それをヤメろとかいうほどヒマではない。吸うも吸わないも勝手にやればいいだけの話ではないか。相手に強制するのは、吸いたくない人に吸わせることも、吸いたい人に吸わせないことも、どちらにしろ暴力でしかない。

たとえば敗戦後の占領下の時代では、人々はDDTやBHCといった有機塩素系の薬剤を、ノミ・シラミ対策として、直に肌に擦り込まれた。このような有機塩素系の農薬・殺虫剤は、今では使用禁止になっている。もちろん単位量あたりの毒性はダイオキシンとは比べ物にはならないが、使う量が違う。人体に対する影響でいえば、直に肌に擦り込むほうが毒性は強い。1950年代の大気内水爆実験が盛んな頃は、通常の雨滴に含まれる放射能濃度が、クリティカルなぐらいに高かったこともある。原発の排水なんてそれに比べたら、下水と水道水ぐらいキレイなもんだ。

こういうカタチで、有無をいわせず擦り込まれたり、ぶちまかれたりするのではたまらない。自分個人ではどうしようもないからだ。しかし、自己責任でコントロールできるなら、何ら問題はないはずだ。自己責任でコントロールできない人が、不充分な知識で右往左往して、余計な心配する方がよほどカラダには悪い。ストレスだって、人間を死に追い込むし、死の危険ということなら、毒性よりはよほどそっちを気にすべきだろう。自己管理ができない人間は、毒性云々の前に、セルフコントロールができなくて身を滅ぼすのだから。

とまあ、常識的な見解を述べたところでなんといっても、所詮「Webは便所の落書き」発言でおなじみの筑紫哲也氏が主催者の一人になっている「週刊金曜日」の増刊だ。これだって便所の落書きレベルのざれ言。こんな便所の落書きに目くじらたてるほうがバカバカしいことは、オトナの見識をちょっとでも持っている人ならじゅうじゅう承知だ。だから、昔の三一新書のなんとかというおどかし本みたいに、必要以上に世の中が過剰反応したりはしないのだろう。情報化時代はジャーナリストだぞといって威張れる時代ではないことにお気づきではないのだろうか。

思想信条の自由がある以上、なにを信じようが、なにを主張しようか自由だ。これが大原則。ただし、思想信条の自由を唱えるなら、それは自分が主張するだけではなく、相手にも認めることが最低条件だ。それさえ守れるなら、どんどんやっていただきたい。しかし、なんか彼らは勘違いしてるんじゃないのか。自分の方がまわりより偉いんだという、知識人特有のエゴを丸出しにしてるんじゃないのか。ではたとえば、筑紫哲也氏がオウムの主張にそれなりに耳を傾けているだろうか。地元エゴから、オウム信者の人権をきちんと守る発言しているだろうか。自分のやってることが正しくて、同じことを他人がやるのは許せないというのでは、どう考えても「公器」たり得ないではないか。

どうも「週刊金曜日」の主催者たちは、自分達が物理的なメディアを持っているというだけで、自分達はジャーナリストであり偉いんだって勘違いをしてるのではないか。東芝ビデオ事件のホームページ主催者も、オウムの信者も、筑紫哲也氏も人間という意味では全く同じ一人の人間だし、人権という意味でも同じ一人の人間だ。そしてその発言にはどちらが正しくて、どちらが間違っているということはなく、どれも一人の人間の発言に過ぎない。もし紙を持っているだけで、自分達のオピニオンが正しく、WEBや自分達の機関紙、集会で主張していることが間違っているともうなら、とんでもない思い上がりだ。

すべては、スタートラインという意味では平等なのだ。そこから先、どちらがより妥当性を持って受け入れられるかは、自由な競争で決めればいい。これが情報化社会の掟だ。自分に弱みがあるから、対等に勝負すると負けそうだからというときになると、メディアを持っている方が偉い論理を持ち出す連中には、真の人権を語る権利などない。そう考えると、ヒステリックなだけで多くの人から共感を得ることができない市民派に、彼らの論調が人気があることも理解できる。しかしそれは利権にしがみついて自己改革ができない官僚と同じ。時代から取り残されつつある最後のあがきでしかない。こんな低レベルな連中に騙されているようじゃ、自己責任の21世紀は生きてゆけないよ。

(99/08/27)



「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる