「世の中」は甘え





日本人には「世の中がこうなって欲しい」という願望を、お願いすれば実現するとばかりに滔々と述べる人が結構多い。社会をこう変えたいというビジョンは大切だし、それを持っているからこそ人間は進歩する。しかしその成果を手に入れたいのなら、その変革は自分自身がまず率先してやるべきものだ。それを評論家のように他人事のように語っても、なにも変化など起こらない。

要は「自分以外の誰か」に甘えて、自分はやりたくないけど誰かにやってもらって、その結果のおいしいところだけは欲しいという、きわめて自分中心で自分勝手な態度である。よく考えてみれば、本当にワガママなやり方だ。しかし左翼やリベラルな人達、さらには官僚などには、こういう口先だけの人間が非常に多い。というよりそういう人種ばかりといった方がいいだろう。

リベラル派の評論家も官僚も、比較的高学歴でそれも偏差値が高い学校を出ている人が多い。こういう輩は、自分に行動力・決断力がないのになまじ知識だけはあるため、屁理屈を付けて自分がやらないことを正当化することだけは得意なのだ。他人にやらせ、他人がやるのは当然であるというような顔をすることで、自分がやらないことを正当化している。

結局、存在のあいまいな「世の中」にすがって、無責任に自分のやりたいことをやろうとしたがっているだけ。実体のない「世の中」に責任ごと押し付けてしまっているので、実現しなくてもそれは「世の中」のせいに出来る。そして、自分はちゃんと「指摘した」のだから、前からわかっていたし、自分の職責は果たしたとアリバイ作りもできる。しかし、それはとりもなおさず自分が存在理由のない人間であることを天下に示していることと同値である。

少なくとも、「きちんとやる人間」は言う前に自分でやるものだ。基本は、四の五の言わずに、自己責任・セルフヘルプでやってしまうこと。まあ言霊として自分を鼓舞する意味では口に出すのも悪くはないが、その場合は「世の中」が主語ではなく、「自分がこうやる」と自分を主語にして語ることが大事である。すぐ「社会」を出す人は、結局「甘え・無責任」である。

自分が「社会」に甘え、常に「社会」を気にしているから、そういう態度になる。行動する人間は、社会を考えるより自分を考えるのだ。社会は結果でしかなく、行動する頭の中には社会はない。それは決して利己主義ではない。自分が動かなくて誰を動かせるのだ。リーダーシップもまず自分が行動することから生まれてくる。自分が動き、自分が実現させてゆけば、フォロワーもついてくる。

芸術家や表現者などクリエイティブな仕事をしている人はもちろんだが、ビジネスでもモノづくりでも全て新しいことを始めて発展させるためには全く同様だ。起業家や発明・発見をもたらしたエンジニアは、そういうタイプの人間だ。世の中には、「世間」のありようから全く自由に生きている人も多いし、そういう人が世の中で新しいこと、面白いことを始めているのだ。

これは同時に、これからのAI時代に求められる人間の生き方とも共通している。過去の歴史や知識をいくらこねくり回しても、何も新しいモノは生まれてこない。能率よくこなすことや、より効率化するには、これからも多くの情報を利用するのが早道なのは間違いない。しかしそこから革命的なブレークスルーは出てこない。だからこそ、それを考え導き出すことが、これからの人間に課せられた役割になるのだ。


(18/10/19)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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