男尊社会は無能な連中の甘え社会





世紀の変わり目の頃は、ネットバブルといわれたように妙な景気の良さがあったせいか、新自由主義的な市場原理・競争原理がある程度世の中に浸透し、「バラ撒きにすがるよりも、自分で道を切り拓く」ことが、気の利いた人間、やる気のある人間の間では、常識のように思われていた。ある意味この時代は女性が活躍した時代でもあり、企業内でのパフォーマンスでもグローバルな活躍でも明らかに女性上位になっていて、圧倒的に女性の方が大きい成果を残していた。

それが10年代に入ると、にわかにバラ撒きやお上の忖度に期待する人が増えてきた。それと共に、女性の地位が低いことに関して声高に主張する人たちも多くなってきた。この5年ぐらいは、一方でガラスの天井論が復活する一方、現実問題として4大卒女性の専業主婦志向が有意に高まっているのも事実である。これらの現象には通底する原因がある。それはこの10年で日本社会に起こった変化に起因していることは確かだ。

昨今の女性問題に関する議論の問題点は、自分達がどういう社会を理想とし、その実現を求めているのかが曖昧で、現状に対する批判・反対に終わっている点である。自分達が変えてゆくのではなく、まるで「誰かが変えてくれるのを期待して、自分達はその成果だけをいただきたい」とでもいわんばかりである。まあ元々日本の革新政党やリベラルの人たちはそういう傾向が強いのだが、昨今は特にまず自分で動くことなく、他力本願な主張を繰り返すだけである。

この問題を考えるには、「男性社会」と呼ばれるものの本質は日本では何なのかをきっちりと把握し、理解する必要がある。現状の議論を見ていると、日本の男性社会の本質と問題点に関するきちんとした考察もないまま、自分の体験を元にした男性社会に対する批判や自己弁護が繰り返されているに過ぎない。これではそもそも議論がかみ合うわけがなく、いかに時間をかけたところで建設的な結論に至る可能性もない。

さて基本的に私は、10年代以降の「逆行」ともいえる変化が起こった原因を、社会・経済の中軸を担う40代・50代の層が、それまでの新人類の流れを汲む世代から団塊Jr.世代に移行したことに求める。団塊Jr.世代の意識やメンタリティーは、その親世代たる団塊世代の影響を強く受けている。このため新人類世代が社会の中核だった00年代とは、社会のあり方に関する方向性が大きく変化してしまったのだ。

団塊Jr.の親世代たる団塊世代は、その7割以上が、農村共同体の大家族で育った。彼等の家族のリテラシーは共同体大家族のそれを引きずったままだが、大企業のブルーカラーとして集団就職で都会に出て核家族を作らなくてはならなかった。それまでの三丁目の夕日のような中学出の集団就職が中心だった1950年代と違い、高校を出て三大工業地帯に代表されるような大企業の工場に就職したのが団塊世代だ。

当時は高度成長期だったこともあり、大卒ホワイトカラーも高卒ブルーカラーも、大企業のメーカーの中では入社年次ベースでは給料に差があったものの、実年齢ベースではそれほど差がなかった。したがって、初期においてはニュータウンの団地、後期においては郊外田園都市の一戸建てなど、同じような年齢で、同じような家を買い所帯を持つことができた。

日本の核家族のありかたというものは、明治の文明開化の時期に西欧の家族制度が導入され、官僚や企業の幹部社員のような、都市部の給与生活者の中間層の間で作られたあまり歴史のないモノであった。都市部にでてきて所帯をもった団塊世代は、このような核家族の伝統と関係ないところから現れ、核家族のリテラシーを知らないまま、核家族を形成しなくてはならないというジレンマがあった。

これが団塊の世代、すなわち集団就職で都会の給与生活者になった世代の問題点である。彼らはが生まれた昭和20年代前半は、農村人口が戦前以上に膨張し、人口の7割以上を占めていた。彼らは農村共同体の母系大家族で育った刷り込みから、核家族を作っても、実は財布を妻が握り、夫は事実上給料を稼いでくる操り人形となっていた。

この世代の集団就職してきた男性の多くは、コミュ障で言われたことしかできない人達であり、正太郎少年にコントロールされる鉄人28号同様、妻子にコントロールされ切っており、核家族化した家庭に居場所はなかった。おのずと、会社しか居場所がないことになる。そこで作られたものが、無能な男でも年功だけで居場所ができる、日本型組織である。

高度成長期だが機械化も進んでいなかったので極度の人手不足であり、右肩上がりの経済なので言われたことをやるだけの人間でも予算が達成できたこの時代に合わせて、終身雇用・年功序列の日本型雇用・日本型組織が生まれた。そこから生まれた日本型男性社会の特徴は、実力のある男性がイバるのではなく、無能でコミュ障、言われたことをその通りすることしかできない多くの男性も、気持ちよく過ごせる楽な組織・社会という点である。

確かに、この原型は体育会の組織にある。しかし体育会については、多くの人間が見逃していることがある。それはレギュラー選手は外側から見ればスターであるものの、体育会の組織のなかではマイノリティーであり、体育会の主流はいくら頑張っても一度もレギュラーになれなかった数多くの二軍・三軍選手の方という点だ。こういう人々が、「成果はないがひたすら苦しさに耐えて頑張ってきた」という年功だけで居心地が良い組織なのが、体育会の問題点である。

つまり体育会型組織というのは、組織に甘えてそのルールに甘んじていれば、どんな人間でも年功序列で居場所が出来てしまうようになっている仕組に特徴があるのである。これを理解することが、「男性社会」なるモノの本質が何なのかキチンと理解し、把握するためのカギとなる。仕事をやっているようで、実は仕事をしているフリをしているだけ。それで済んでしまう組織のあり方こそが、日本型の男性社会なのだ。

そもそも言われたことをやることしかできない人間が、日本の男性には多い。こういう人達が、組織にぶら下がって甘える。何も生産していないが、手を動かしているだけで、なにかやっている気になれる。成果ではなく「頑張ったことを評価する」システムは、こういう甘えの中から生まれてきたものである。本当に付加価値を生み出す組織なら、頑張っただけで成果を出さない人間は評価しないし、居場所がなくなって当然である。

この原因もまた、高度成長期にある。日本の高度成長期は、実は貧しい物不足の世の中だったので、どんな商品でもモノさえあれば売れる超売り手市場だった。工場は機械化し大量生産が進んでも、情報化が進んでいなかったので、営業部門や管理部門には伝票や帳票の処理のために人が大量に必要だった。このため、何も生み出さなくとも、言われたことをやるしかできない人間でも、頭数が必要という一点で居場所があった。

そういう時代に甘えが染み付いたのが団塊世代であり、そのミームを受け継いで育ったのが団塊Jr.世代である。筆者が電通の生活者インサイト部門に所属していた頃、私のチームが当時問題になっていた「ニート・引きこもり」問題について生活者インサイトの視点から分析し、これが団塊世代の核家族特有の現象であり、十年後にはその中核がそのまま加齢し、中年層の社会問題になることを予言した。そして実際そのようになった。

これもまた、団塊世代の甘え体質の現れである。その甘え体質を受け継いだ団塊Jr.が、お上にバラ撒きを「期待」したり、誰かが女性差別のない社会を作ってくれることを「期待」するというのはウザい。そういうのはぶつぶつ言う前に勝手にやってしまえばいいだけのことである。とはいえこれも時の流れである。世代交代でその下の新人類Jr.世代が社会の中核になればことは解決するだろう。しかし、ここでまた団塊世代が主犯だった90年代の「失われた10年」が繰り返されてしまうのも確かだが。


(18/10/26)

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