学ぶことの意味





人間の文化や歴史は、ホモサピエンスを含む類人猿だけが持つ特別な脳の構造によるところが大きい。それは、他の動物も持っている自身の過去の経験から得た五感のイメージを記憶するウェルニッケ領野のアナログ記憶だけでなく、いろいろな知識を言語化した上で相互に関連付けて記憶できる前頭葉のブローカ領野を持っていること、そしてその両者を縦横に結び付けている弓状束が機能していることである。

これにより、自分が体験したことしか記憶として持てない他の動物とは違い、自分の経験を言語化することで、それを知識として他の個体と共有したり、多くの個体の体験を組み合わせることでより高度な知識を構築したり、さらには文字の発明によりその経験を時間軸を越えて過去から将来へと共有し、文化や科学の体系を脈々と受け継ぎ進化させてゆくことができるようになった。

人類の歴史が長くなり過去から受け継ぐ知識が膨大なものとなったことで、教育や学習により得られるものが非常に多くなった。これにより、自分が体験してウェルニッケ領野の情報を増やすよりも、とにかく学習により過去の知識を覚えることでブローカ領野の情報を増やすことが大切で意味があるとする風潮が、特に産業革命以降の近代社会においては常識化し、教育のあるべき姿として金科玉条のごとく重視されるようになった。

しかし、そもそもの人間の脳の構造を考えていただきたい。ブローカ領野の高度に関連化された言語情報が、ウェルニッケ領野の経験的なアナログ情報とマルチにリンクできるからこそ知能を持てるのである。ブローカ領域の知識情報だけがいくら増えても、それがリンクされるべきウェルニッケ領野の経験情報がなくては、人間らしい知的生産は生まれないのである。知識だけが多い脳というのは、インデックスだけたくさんあって、コンテンツが貧弱なデータベースのようなものなのだ。

確かに、学習して得た知識に基づく判断だけで答えが出せる問題も多々ある。それは人類の文明が進化すればするほど過去の経験も蓄積するし、世の中には構造が単純で明解な課題も多いからである。その一方、今までの人類史上で誰も出会ったことがなく、誰もソリューションをもたらしたことのない課題に対して解決策を編み出すには、ウェルニッケ領野の経験して得た知恵もフルに動員して、脳全体をマルチに使った判断が必要となる。

かつて明治維新からバブルまでの日本のような「追い付き・追い越せ」の時代、はるかにかなわないベンチマークする相手と何とか勝負するためには、学習した知識が有用だった。絶対的な体力が求められることは確かだが、「敵」の手口を完全にマスターし、敵のクローンになってしまえば、少なくとも「いい勝負」に持ち込める可能性はある。だがそれでは追い付くことは出来ても、追い越すことはできない。

宇宙ロケットは、地上からの打ち上げ後、まず第一宇宙速度に達することにより、ひとまず地球の周回軌道に乗る。すでに宇宙空間ではあるし、無重力の世界に入ってはいるが、所詮はまだ地球の引力圏の中で、遠心力と引力とが拮抗している状態に過ぎない。どんなに暴れても所詮はお釈迦様の手の中から出られない孫悟空のようなもので、地上からは離れられたものの、まだ地球の影響圏内にとどまっている。「追い付く」とはこういう状態だ。

しかし、月に行くのでも火星に行くのでも、はたまた銀河系から脱出するのでも、宇宙ロケットが本当に宇宙空間の中を自由に飛ぶためには、そこからさらに加速し、第二宇宙速度に達した上で地球の引力圏から脱する必要がある。本当の宇宙旅行とはそこから先の話なのだ。これが「追い越す」だ。そこに求められるロケットの機能は全く異なる。だから月まで行く宇宙ロケットの初段と次段以降は設計も機能も違う。

知識についてはコンピュータとネットワークの進歩で、人間の前頭葉が処理し記憶できる以上の情報処理が可能になっている。その一方で「経験値」の高度化は、AIのディープラーニングでもまだかなり人間のサポートが必要な段階である。コンピュータが自分自身の興味を持って自ら経験の機会を演出することで経験値を自主的に高めたり、経験の中の発見から新しい経験を求める「欲求」を持つことは可能だが、それまでにはまだ時間がかかるだろう。

そういう意味では、今人間がやるべきことは、ブローカ領野の情報を増やす学習ではなく、ウェルニッケ領域の情報を増やす経験である。文明の進歩と共に、人間は生物の進化の原点であった「自らの経験」の重要性を忘れてしまったようだ。ブローカ領野の情報が「形式知」なのに対し、ウェルニッケ領野の情報は「暗黙知」である。「暗黙知」があるから、「形式知」が作れる。この非可逆的な構造を忘れてはならないのだ。


(18/11/02)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる