甘えとおせっかい





他人に甘えたい、他人からおいしいモノを貰いたいと思う人ほど、相手に対して妙に過剰な親切心を出しがちだ。おせっかいな人、他人にすぐ干渉する人は、実は自分が他人からいろいろしてもらいたいからこそ、それを先取りする形で他人に対していろいろやりたがるのである。すなわち他人に甘えたい人ほど、他人とのコミットメントを深くしたがる。その結果おせっかいになるのだ。

こういう他人への深いコミットメントを求めるのは、自分と他人とが出来るだけ同一であって欲しいという願望を持っているからである。ある意味、日本人、日本社会が抱える問題点の多くは、この「他人への深いコミットメントの願望」から生まれるものである。これを当たり前と思う人が多いかもしれない。だが、これは余りに甘えなのだ。本来全貌が見えない「社会」や「世間」は、自分が帰属する集団ではない。

人間も動物としては霊長類の一種である。その中でもゴリラやチンパンジーなど、知能の高い族の一つである。ある程度社会性を持ち、集団で暮らさなくては生きて行けない動物であることは確かだが、草食獣や魚のような極端に多い集団を形成する動物ではない。ほどほどの集団を作り、そこに加わったり離れたりする自由を持つタイプの動物としての本能を持っていることは確かだろう。

その流れで考えると、本能とは違うある種の理性的な「おいしさ」があるから、甘え合ったり過剰に群れたがったりすることがわかる。これはいってみれば「集団依存症」「社会依存症」とでもいえるような、自分の力で自分を律せない人が、大きい集団を隠れ蓑とすることによって、自助努力ができない自分のふがいなさを隠蔽する行動である。であるならば、異なる「甘え先」を提供することでそれを克服することが可能なはずだ。

そのためにはまず「多様性を認める」とはどういうことなのだろうかを、その原点から考えてみよう。それは相手の意見を受け入れたり尊重したりすることではない。それも結果的には重要ではあるが、それが本質ではない。多様性の本質は「相手に自分の価値観を押し付けない」ところにある。相手をどう見るか以前に、自分がどうするかが多様性の原点なのだ。

ここが理解できていない人が多い。それは自分という個人が確立できていないことと裏表である。そもそも「社会は持ちつ持たれつ」と称して、自我そのものの自立から否定してしまっている人もかなりいる。特にいつも言っているように日本の「男性社会」と称するものは、甘え合いに基づく極度な相互依存社会であり、そこにどっぷり浸っている人間は、個人を確立しないまま一生のほほんと生きて行けるのだ。

まあ、甘えて生きる方が楽ではあるし、生まれてこの方「自分の足で立ったことがない」ような人も日本の男性には多いので、今から全ての人に「自立して生きる」ことを強制するのも無理であろう。そういう意味では、「自分に迷惑がかからない限り、他人の足を引っ張らない」ことから始めるべきである。そのためには、いい意味で相手を「無視できる」ことが大事だ。相手が何をしていようと、自分に関係なければどうでもいいではないか。

違っていても、直接ぶつかるのでなければ互いに気にせず許す。互いに互いの見えないところで何をやっていても、よほど気して詮索しない限り自分に害が及ぶことはない。なら基本相手を無視して、それぞれの陣地内では勝手にやっていればいい。これがダイバーシティーの基本である。多様性とは、摺り寄ることではない。自分に迷惑や不利益がかからない限りは、相手をあるがままにしておくことを許すことである。

甘えたい人は、寄らば大樹の陰なので「一つの大きな意見」だけが正しいと思いたがる。問題はここにある。自分が正しいと思う意見が批判されると、自分の利権のよりどころが失われるとでも思うのか、強力に反発する。実はそんなことはないのだが、甘え好きな人達はこれを「お家の一大事」と感じてしまうのだ。だから、自分と違う意見の集団をなんとか撃滅しようとする。ここで持ち出されるのが、「正義」という理屈である。

実は「正義」とは、人間の頭数だけあってしかるべきものである。あなたの正義があり、わたしの正義がある。それは違って当たり前だし、どちらかが正しく、どちらかが間違っているというものではない。自分の中で何が一番筋が通っているかという問題だけである。自分の中の問題だからこそ、敢えて語らなければ、それが何かは自分にしかわからない。それならぶつかる心配などない。

それが大樹によりかかる自分の正当性を示すために「社会に一つの正義」になってしまう。そして、その「正義」にそぐわないものは全て否定するようになる。これらは全て、権威にすがり、利権の分け前にあずかり、甘えて生きるための方便である。別に甘えたい人間は甘えて構わないと思うし、甘えさせてくれる人を見つけてその脛を齧ればいいだけのことである。

それを政府だのお上だの、はたまた対象が曖昧な社会を相手に甘えようとするからおかしくなるだけだ。そのウサを、他人へのおせっかいで晴らさないでほしい。そう、自分が甘えるのは勝手だが、相手におせっかいをする自由はどこにもない。まず第一歩はここだ。せめておせっかいはやめよう。そういうのは甘え合う仲間だけの秘密にしておいてくれ。それだけでも世の中はずいぶん住みやすくなるし、ずいぶん活性化するはずだ。


(18/11/16)

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