幸せになるために





昨今リアルとヴァーチャルという言葉が必要以上に幅広く使われているが、自分にとってリアルとは何かを深く考えてみたことがある人は少ないのではないだろうか。リアルとは何かを考えた場合、それを捉える基準を何に置くかによって、二つの捉え方があるように思われる。一つは都市や資本といったそこに存在する物質的存在。すなわちそこにある「モノ」こそ現実なのか。もう一つは人間関係、すなわちそこにいる「ヒト」との関係こそが現実なのか。

今の時代、心の病に悩む人が多い。しかし私は何も悩むものがない。その落差がどこにあるのかを考えてみて、気付くものがあった。私は他人に何も期待していないし、いくら今いい関係性があったとしても、いつ足を引っ張るかいつ裏切るかわからないと心の隅では常に考えている。そこまで予防線を張っておけば、他人や組織、社会との間で何が起こってもほとんど想定内で焦ることはない。

逆に、他人を信頼しすぎる人や他人に依存し過ぎる人は、その期待が裏切られた時に心が病んでしまうのだ。それは、独立した個としての自分のアイデンティティーを持てず、他人だったり組織だったりから与えてもらわなくては自分が何者かわからない以上、その椅子を外されてしまうと、自我が崩壊してしまうからだ。これは、日本人には自己アイデンティティーとしての宗教を持っていない人が多いことがメンタルをやられる理由と言い換えることもできる。

信頼できる現実はモノだけ。ヒトは全てうつろいゆく陽炎のようなものである。いわば私にとってのリアルとは、街の雑踏の中でバルブの超スローシャッターを切った写真のようなもの。人影はすべて流れ、街並みだけが写っている。もともと他人は愛想は良くても、自分のために何かしてくれることはない。相手にとっても都合がいいから、私のためになることもやってくれているだけである。それどころか、どんなに信頼している相手でも、いつ裏切って足を引っ張るかわからない。

多数の側で群れる人間は、みんな自立した自分を持ってない。誰かに甘えたい、すがるべき権威を求めたい。自分のアイデンティティーは自分の中にはなく、外側の組織や権威を借りてくるしかない。この点においては、ネトウヨだパヨクだと互いを罵り合っている人達は、同じ穴の貉だ。どちらも自分の足で立てないだのだが、既存の秩序に権威を求める人と、我田引水の屁理屈に権威を求める人という具合に、その求める権威が違うだけ。

日本人は他人と互いに甘え合っているため、結果的に相手を信頼しすぎる人が多い。このため組織や集団への期待が強くるとともに、その裏返しで組織に対する忠誠心も高くなる。「甘え・無責任」が生み出した終身雇用・年功制という日本独特の雇用形態など、その歪んだ組織への期待が生み出した典型的な例である。だが、これは世界的に見れば異常だ。どっぷり甘えに浸った島国根性といっていい。

大陸性の多民族社会では、周りはすべて基本的に「理解できない敵」である。そういう連中を束ねて組織化して、ある目的に向かって進ませるのが、アングロサクソン流の組織論だ。社会構造という意味では、そういう組織論に基づいた社会の方が一般的である。「昨日までの敵」もウマく味方の戦力に組み込んで使える。アングロサクソン流のリーダーとは、そういうリーダーシップを執れる人間を意味する。

結局、人間は独善的な生き物である。口では「仲良くしましょう」「平和にしましょう」といくらでもいえるが、最後の最後になれば、他人のことを考える余裕などなくなる。そもそも、「他人とは決して信じきれる存在ではない」と思っていなくては社会は機能しないのだ。だから必ずある程度疑ってかかり、裏切られた時のヘッジをかけておく。ヘッジを掛けておけば、いざ裏切られた時でもあわてずに対応できる。

そういう視点からも、「信じられるのは血のつながった親族のみ」というのがグローバル・スタンダードである。もっともこれには例外が二つある。一つは、その人がまさに「神の子」で稀に見る利他的な博愛精神の持ち主だった場合だ。そういう人がいないわけではない。しかし、こんな人はみな神の使いや預言者として人類史上に名が残っている。だから極めてその数は少ない。

もう一つは、本当に愛する相手に対する場合。愛する相手に対してなら、自分にとって相手の方自分自身以上に大切なのだから、無条件に利他的になれる。ただこれは命を差し出すようなものなので、一人の人間が真の愛を捧げられる相手は一人しかいない。従って、そう簡単に出会うものでもない。それよりも、そういう相手には結局一生出会わない場合の方が多いだろう。

ということで、人類世界は利己的に生きなければ生きて行けないのがデフォルトである。甘えた精神で、能天気に他人を信頼してしまう日本社会がどうにかしている。日本がナンバー2にはなっても、世界をリードする立場になれないのは、この他人や組織を信じてしまうことが原因である。日本人が観念的・抽象的な平和論をすぐ持ち出して世界の笑いモノになるのもまた、この組織への甘えが引き起こしている。

人類は皆、まず自分が幸せになるべきだ。まずは他人のことなんか考える必要はない。自分だけ楽しく、自分だけ幸せに、それでいい。他人のことを考えたら、なにか他人も自分にいいことをしてくれるんじゃないかと、妙に甘えるからおかしくなるのだ。利己的に自分の幸せを追求してはじめて、真に他人のことを考える余裕も生まれる。日本人よ。ワガママになって、他人や組織に甘えることなく、それを自力かつ自己責任で実現したまえ。他人の話をするのはそれからだ。


(18/11/30)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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