AI時代の歩き方





AIが実用化される時代になり、AIという言葉自体がハイテクバズワードの常として枕詞のように繰り返されるようになった。これとともにAIと人間の役割分担について喧しい議論が繰り返されている。しかしこんなコンピュータと人間の役割分担の話など、40年前のマイクロコンピュータ革命の頃から何度も繰り返されてきた情報社会論の延長上でしかない。ある意味その頃から答えは出ているし、わかっている人はわかっている。

コンピュータ「でも」できることしかできない人間もいるし、コンピュータ「では」できないことができる人間もいる。1970年代末から言われていたことは、コンピュータや情報システムの立ち位置が人間集団の中に入ってくるので、コンピュータを「使いこなす」人間と、コンピュータに「使われる」人間が明確に分かれてくるということであった。当時からそうなのだが、そこに線を引かれるのがいやな人間がゴネているだけである。

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」なのだろうが、「コンピュータはコンピュータの上の人を作り、コンピュータの下の人を作る」のである。コンピュータというもの自体が、大量の知識(情報)を高速に処理するための機械として生まれた以上、人間が行っていた情報処理をより速く、より高度に、より安く実現するためのものである。その部分に関しては、人間がやるよりずっと効率的だからこそ存在意義があるのだ。

「コンピュータ」を使う立場の人は、概して直感的にこの構造を理解している。その反面「コンピュータ」に使われる立場の人は、この構造を理解できないからこそ無意味に不安になり、産業革命時の「打ち壊し運動」のように必要以上に新しい動きを恐れて、その変化自体を否定しようとするのだ。理解できないから使われるのか、能力が足りないから理解できないのか。これは単純な因果関係ではなく、卵と鶏のような相乗効果の関係である。

さて情報化時代の人間の役割を考える上で重要なのは、情報エントロピーの理論である。これがわかっていれば恐いモノはない。もっとも、これがわからないからヤバいともいえるのだが。それは置いておいても、シャノンの定理こそが人間とコンピュータの役割を示してくれる。かつて学生時代にこの理論に触れた時、この中に人間の本質が入っているような気がして武者震いがしたのだが、その直感は当っていたようだ。

そして、今ほどそれが重要になっている時代はない。すなわち、「創造」とは情報エントロピーを下げることができる行為なのである。この一言で全てが語られてしまっている。コンピュータシステムは、それがどれだけ広いネットワークに繋がっていたとしても、初期状態より情報エントロピーを下げることができない。AIのように新たな情報を取り入れることで、新たな知識系を作り出しているシステムもあるように見える。

だがその場合も、新たな情報を別の系から取り入れているときに、その情報を保持していた外部の系の情報エントロピーを丸ごと自分の系の中に取り込んでしまっている。情報エントロピーを測定するベースとなる系自体が変わってしまっているのだ。両者を合わせた系をベースに考えれば、エントロピーは減少していない。いや、両者の相乗効果でノイズになる情報が増す分、情報エントロピーが増大していると見るべきであろう。

これは熱力学におけるエントロピーの増減と比較して考えてみると理解しやすい。閉じた系に外側からエネルギーが投入されれば、その系単独でのエントロピーは減少する。しかし、外側からエネルギーを取り入れた瞬間にその系はもはや閉じた系ではなくなっている。今度は、最初の閉じた系と、そこに投入したエネルギーを産出した系をあわせたものが、新たにエントロピーを考える基準の系となる。

具体的な例としては、化石燃料をエネルギー源として使った場合を考えてみよう。化石燃料は過去の太陽エネルギーによって減少したエントロピーを保持している。それを放出することでエントロピーを下げるだけである。その分、その化石燃料を産出した系のエントロピーは増大してしまう。これは、地球全体で考えれば化石燃料は有限な資源であるということを、熱力学的に証明していることになる。

その一方で、いわば化石燃料のような古典力学のエネルギー保存則に則ったエネルギー源でなく、核融合による原子力エネルギーのように、エネルギー保存則の外側で量子力学的に生成されたエネルギーを使用した場合を考えてみよう。少なくとも熱力学レベルにおいては、無から新たなエネルギーが生み出されたことになり、これならばエントロピーは確実に減少する。

このように熱力学におけるエントロピー理論は、古典的な物理学と現代的な物理学を結びつけるロゼッタストーンのような存在である。もっとも、量子力学レベルまでを包含するようなレベルでメタな拡張エントロピー概念を構築することは可能だし、そこまで広げれば決して無から有が生まれたわけではないといえないこともないが、これは完全に理論上の話であり、あくまでも情報処理の比喩として語っているので、ここまでにしておく。

たとえにしては踏み込みすぎてかえって複雑になってしまった気もするが、では事例をベースにこの違いを示してみよう。テレビキャンペーンも盛んにやっているが、公文式というのがある。公文式自体は、単なる問題集あるいはドリルを体系化したものである。効果があるのは、確かであろう。しかしその効果の出方を見ると、公文式は天才と秀才の境目を示す踏み絵のようなものであることがわかる。

公文式の問題をたくさん解いてゆく。その先には子供たちの能力によって二つの道がある。そこから答えや公式を覚えるか、はたまたそこから法則性を発見するか。たとえば2桁×2桁や3桁×3桁の掛算のドリルをやっていて、技術としての筆算をマスターするだけで終わるのか、そこから関和孝の和算やインド流九九のような、二桁掛算の法則性まで発見してしまうのか。前者は秀才である。テストでいい点を取るためには、こちらのタイプの方が圧倒的に強い。

多分、前者の子はテストの点数を取れるようにはなるが、数学的発想に興味をもったり数学が好きになったりすることはないだろう。その一方で後者の子は天才肌だ。計算問題を速く正確に解くことは、必ずしも秀才の子には及ばない。だが自力で法則を発見する喜びを知ってしまったことで、仮想的な空間の中で自分のイマジネーションを自在に繰り広げられる、数学のアブない魅力に一歩近づいてしまったかもしれない。

話は違うが、個人的な友人には理学部数学科の研究者になった人間も多い。それで知っているのだが、「数学者の酒席」というのは一種異様な世界である。みんな6次元とか7次元とかの高次元空間を頭の中に思い描ける人なので、その空間での事象を語り合って盛り上がったりする。肉体は確かにそこに集まっているのだが、意識が完全に異次元にワープしている。端から見ていると、完全に「アブない集団」であることは間違いない。

話を元に戻すが、ここで自分がどういいうタイプであるかわかる。秀才タイプは、誰かが決めてくれた規範がないと生きて行けない人である。ただ、規範の中では圧倒的なパフォーマンスをあげることができる。一方天才タイプは、自分で規範を創り出せる人である。逆に既存の規範の中に入るとそれが制約となり、自分が持っているポテンシャルの割にはあまりパフォーマンスをあげられないことも多い。

そう、規範の中でパフォーマンスをあげるのは、まさにコンピュータシステムの得意技である。多分、秀才がどんなに努力しても、AIには叶わないだろう。一部の高級官僚のように、その能力を悪知恵のほうにフルに生かす秀才もいる。これもまたまもなく国際的な犯罪組織はAIを利用して犯罪を犯しまくるようになるだろうから、同じ穴の狢である。結局、同じフィールドで争ったら勝てないのだ。

その一方で、天才タイプなら新たなルールとフィールドを創り出し、その新しい「試合」にAIを投入することで新たなチャンスを次々とモノにすることができる。この違いが、AIの時代にはコンピュータを使う人間と、コンピュータに使われる人間を仕分ける。「当たり前にできる」ことでは、あまり金が取れなくなるのは確かだ。それで困る人も多いだろう。それは本質的な価値を生み出していなかったからだ。

しかし何でも機械でやれるようになれば、現状の機械でできないようなスゴいことを求める人も増える。人間はすぐ「飽きる」動物なので、お客様の目はたちまち肥えてきて、「さらにその上」を求めるようにある。それはそれができるクリエイターに対しチャンスを増やすことになる。AI化こそチャンスまさに、コンピュータ以上、コンピュータ以下で、実入りが変わる時代になるのだ。そういう才能のない人は、まあ、地道にコンピュータに使われてくださいな。


(18/12/07)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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