大物になろう


最近の日本では、どうにも「ひとかどの人物」と呼べるような、深い人間性を持った人材にとんと出会わなくなった。いい意味での「大人物」が出てこない。いることはいると思うのだが、超大物はいざ知らず、ほどほどの器の人達は成りをひそめている気がする。人の器が評価されないような環境では、わざわざ自分の人間性をアピールするヒトなどいなくなる。たぶんこれが原因だろう。20世紀後半の日本は、ずっと人の器を軽視してきたかのようだ。確かに近代工業社会では人間性は軽んじられてきた。だがそれでは時代が許さなくなっている。変わらなくてはいけないのだ。

そもそも大物とはどういう人間なのだろうか。その特徴は、まず肝がすわっていることがあげられる。まわりがどう変化しようと、なにが起ころうと動じない。そのためには、しっかりとした自分を持っていることが必要だ。自分というものがしっかりと確立していて軸が自分の中にあること。これがあるからこそ、なにが起こっても自分の道がぶれずに済む。これが成功の鍵となることはスポーツでも芸術でも、経済界でも全て同じだ。どんな分野でも成功している人、成果を残している人は皆、すべて自分をしっかり持っている。その一方で、小物はまわりばかり気にし、風が吹くたびに右往左往する。これでは、いつまでたっても自分らしさは育たない。

たとえば政治家などは、人間性の差がモロに現れるいい例だろう。日本には本当の政治家がほとんどいないので誤解されやすいが、政治家こそ器が大きくなくては勤まらない仕事だ。日本の政治家は「田舎議員」ではあっても「Statesman」ではない。この違いは人物の器だ。きちんと自分を持っていて、動じない。だからこそ人がついてくる。選挙で選ぶ側の人間性が高いなら、セコい政治家は選ばれない。そうでないからこそ、政治家の器が小さくなる。

はっきり言ってしまえば、目先の利害しか考えない小人物が選ぶから、政治家もちっちゃくなる。つまり器のある人物は、どんな状況でもある確率で存在するものの、それが評価され、それなりもポジションを得るかどうかは、世の中一般の人間性のレベルに依存している。だから政治も、人格者による制限選挙にした方が、世の中ずっとよくなるだろう。これを一般化して考えれば、このような状況を打破するには、みんながみんな人格を磨き、そこそこの人間性を持つようにならなくてはいけない、ということが言える。これができれば、一気に今の環境を変え、本当の意味でのパラダイムシフトをもたらすことができる。

自分とは持つものだ。これが自分だという意思の力、信念の力があってはじめて、自分らしさを持つことができる。人から与えられたり、なにもせず自然に獲得できたりするものではない。これは、自分で自分の居場所を決めて、そこにしっかりと根を張ることからはじまる。他力本願でなく、自分の足できちんと一人でたてる人間であることが、まず一番に問われる。大木の根がしっかり張っているところには、他の木や草は生えてこない。これと同じだ。自分の根がなくては、自分の世界は作れない。

しっかりと自分を持っていると、しっかりと先が見通せるようになる。だから目先のおいしそうなエサにもまどわされなくなるし、なかなか騙されなくなる。大局的な判断も容易になる。これがグッドサイクルを生む。最初にしっかりと自分を見据えれば、それ以降はいいペースで自信がわいてくるし、凡ミスもしなくなる。最初は似たようなポジションにいたとしても、どんどん実力に差がついてくる。最初のでだしのちょっとした差が、あとあと大きな違いとなってくるいい例だ。

なにか発想するときには、社会や世界といった自分の外側にあるものからスタートしてはいけない。あくまでも最初は、全て自分の中からスタートする。これが幸運を、そしてチャンスを生むのだ。自分らしさを生み出し、発想する限りにおいては、知識も勉強もいらない。知識や勉強が役に立つのは、自分らしさを効率よく伸ばしたり、広めたりする部分。最初はあくまでも自分の中から湧き出てこなくてはいけない。これなら逆に、誰だって素直になりさえすればできる。みんなが少しはそういう発想をするようになれば、世の中はずっとよくなるだろう。最初はちょっとでいい。そのちょっとの違いが、のちのち大きく効いてくるのだから。

(99/09/03)



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