覆水盆に返らず





相手に対して自分の意見を押しつける権利など誰にもない。全ての意見は等価である。相手に強要したり、押し付けたりしない限り、自分がどんな意見を持っていても、他人から意見を変えることを強要されたり、相手の意見を押し付けられたりすることはない。互いに相手が自分と違う意見を持つことを許容し、それを自分の中にとどめる限り干渉しないこと。これが多様性の原則であり、思想信条の自由である。

意見を押し付けず、相手を否定しないからこそ、多様な意見が共存できるし、ダイバーシティーになるし、市場原理が働くのだ。多様性の尊重とは、少数意見を「かわいそうだから」と天然記念物のように特別扱いすることではない。それは多数派の横暴である。人がそれぞれ自分の世界の中で自分の意見を持つことに関しては、他人は一切口を挟まない代わりに、相手もこちらに対しておせっかいをしないことが大事なのだ。

ところが、旧来のマスメディアに代表されるエスタブリッシュされた「ジャーナリズム」は、自分の意見を社会に押し付けることにこそアイデンティティーを見出す。「第四の権力」などと自称していることからも、「ジャーナリズムは他人に自分の意見を強制することができる」という思い上がりがあることはありありだ。昨今のオールドメディアをベースとするジャーナリズムの制度疲労は、ここに問題がある。

せっかく社会の情報化が進み、多様な意見が共存できるインフラになったにもかかわらず、未だに自分だけが正しいとばかりに自分の意見を押し付ける。20世紀の産業社会のスキームの中ではそれなりに妥当性があったのかもしれないが、今やそれを許すような社会ではなくなっている。1960年代までは成人男性は喫煙者であるのが常識とされ、それが社会の基本ルールとなっていたが、今ではそういう発想は到底許されないようなものである。

インターネットの仕組みは、原則プル型なので、見たくないものをあえて強制的に見せる力は非常に弱い。だからこそ、オンラインゲームやeコマースなどのネットビジネスは、客集めの告知の手段としてプッシュ力の強いテレビスポットを愛用する。いまやブランド単位でみたテレビ広告の出稿量のランキング上位は、ネットビジネスが独占している(企業単位の出稿量では、まだまだ消費財の大メーカーの方が規模の差で大きくなるが)。

このように自分からアクセスしない限り、その情報は永遠に目に触れる機会がないのがインターネットの掟だ。これは告知メディアとしては欠点ではあるものの、一方でメリットもにもなる。こういう特性があるからこそ、違う意見の人がいたところで、わざわざアクセスしないがぎり目に触れないのだから全く気にならないのだ。自然と棲み分けが行われることになる。

ダイバーシティーという意味では、理想的な環境である。だからこそインタラクティブ的な情報環境においては、旧来のジャーナリズム的発想が支持されないのだ。上から目線で、「自分達だけが情報エリートで、愚衆を啓蒙する」という発想は、特に新聞おいてこの傾向が顕著に見られる。だからこそ、新聞の凋落がもっとも激しくなっている。エスタブリッシュされていた自分の権威によりかかったいたからこそ、時代性を感じ取ることができないでいるのだ。

その一方で、左翼やリベラルがUGMを使う場合にも全く同じ問題が生じている。彼等は、一部のエリートが愚衆を導く(実は扇動だ)という妙な価値観を持っている。それは悪しきマスメディアジャーナリズムの「上から目線」瓜二つである。上から目線は、インタラクティブ環境では禁物である。これをひけらかすと、支持されないどころか、激しい反発を受けるだけである。情報感受性が低いから、そういう立場にいることさえ気付いていないのだ。

彼等の発想の問題は、価値観の軸が一つしかなく、その中で「正しいか、正しくないか」という視点しか持てない点である。多様性とは二択ではないこと百人百様で選択肢があるのが多様性である。正解以外は全て間違いとして否定する。そう思う人は仲間で、そう思わないの人は敵として排除する。これは、多様性の対極にある考え方だ。一神教的な、一つしか正解がないという思い込みが成せるワザである。

しかし、世の中はそういうものではない。世の中で「正しい」とされる意見は、一見ひとつにまとまっているように見えても、それを指示する理由を見てゆくといろいろな思惑やしがらみが絡んでいることが多い。必ずしもそうは思わなくても、一応長いものには巻かれてしまおうという人。多数派に付いた方が利権が多そうだから、個人的な意見や主義主張は封印して、そっちの尻馬に乗る人。

このように多数派の支持者とはいっても、その理由を見ていけば一枚岩ではなく、千差万別なのである。多数派とはきちんとした思想信条に支えられた集団ではなく、「寄らば大樹の陰」として寄り集まった烏合の衆なのだ。だからこそ、自分達の考え方がしっかりしている少数派を恐れている。その分、数だけを頼りに自分達だけが正しいと主張したがり、自分達の権威を認めて摺り寄る少数派は尊重しても、真に多様性を認め合おうとする少数派は否定するのだ。

だから恐れることはない。マイペースで、勝手に「この指とまれ」で自分達の世界を作ってしまえばそれでいい。もちろん、自分が勝手にやるだけで、それを違う価値観の人に押し付けてはいけない。みんな互いに干渉せず、小さい集団に分かれて好きなことをやるのが、幸せへの最短距離なのだ。そもそもインタラクティブなコミュニティーっていうのは、そういう特性があるではないか。もう時代は変わった。産業社会の常識は早く捨てた方がいい。もう、時代は逆戻りしないのだから。


(18/12/14)

(c)2018 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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