テレビの勘違い





このところ、テレビがおかしい。きみたちは、皆が面白がることを、タダで提供しているところにアイデンティティーがあったんじゃないか。自分がエラいんじゃなくて、大衆が支持してくれるから自分がある。それなのに、大衆が求めているモノや、大衆が良いと思っているモノから敢えて視線をそらし、それを批判さえするような上から目線の論調を投げかけるとは。テレビ局よ、間違うな。

テレビはいまでも人気はあるし、かなりのプッシュ力も持っている。インタラクティブビジネス企業が、最大の広告主になったことがそれを証明している。その力はどこから出てくるか。それは楽しくて面白いからではないか。ウケることが、地上波の最大の役目だ。エラそうに、上から目線でジャーナリズムっぽく語ることではない。しかし、なんでまたわざわざ自分の強みを自分でダメにしちゃうんだ。

今や皆が皆、8割方の国民が与党を支持しているんだから、批判せずにそのオピニオンを素直に伝えればいいだけじゃないか。そうしたら、視聴率がもっと取れる。そして広告主ももっとつく。売り上げももっと上がる。これこそwin-winでハッピーではないか。バラエティーは基本的にその手法ではないか。なんで「報道」と名が付くだけで、偽善っぽくやり方を変えてしまうんだ。これではビジネスとしても落第だ。

視聴者のことを一番よく見て、一番よく知って、一番大事にしてきたのは民放じゃないのか。消費者である視聴者の支持がある。だからこそ、民放には広告が付くし、ビジネスとして成り立っている。役所の匂いがするNHKのような上から目線とは違うのが、民放の強みではなかったのか。テレビというメディアの構造として、いちばん権力があるのは視聴者である。視聴者に選ばれなければ、そもそもメディアとして成り立たないのだ。

視聴者に見てもらえる、楽しんでもらえる。これが担保されて初めてテレビというメディアが成立する。いくら電波を発射したところで、どの番組も全部「*」になっていたのでは、それはメディアではない。ところが少なくともiモードが普及した時点で、テレビの視聴者はマルチスクリーンで楽しむのが常識になっていた。マルチスクリーンで見ていることの裏には、見たく無いモノは見ないという強烈なメッセージがある。

それ以前にテレビにリモコンがついた時点でザッピングが始まり、つまらないモノ、見たくないモノが現れると、すぐにチャンネルを変えるなり、地上波からBSへ、BSからCSへと違うプラットフォームを選ぶなりするようになった。じっと一つの番組を見させるには、よほど視聴者の興味を釘付けにしておく必要がある。じっと見続けていないと「その一瞬」を逃してしまい、そもそも見ている意味がなくなる駅伝やマラソンがテレビコンテンツとして相性がいいのもこのためである。

少なくとも現場の番組制作者は、1分刻みの視聴者の流入流出データをよくみていて、00年代にはこの事実を把握しており、見せ場までちらちらティージングしながらずっと引っ張りまくるような構成を取るようになっていた。何といっても、チャンネルを変えたりスイッチを切ったりする権利は、完全に視聴者の側にある。しかし今に至っても、放送局の経営幹部や報道関係の社員には、この事実がよく理解されていない。というか、そう思いたくないので見て見ぬふりをしていたいのだろう。

そういう意味ではすでに昭和末期から、テレビでは上から目線の意見の押しつけは不可能になった。それだけでなく、視聴者の側にも自分と意見の違う人のオピニオンは、なるべく聞かないようにするという、ある意味やさしい心理が働くようになった。テレビと見ながら、スマホをいじる。無理して必死にテレビの画面に食いついて見聞きする必要などどこにもない。逆に言えば、視聴者様の下僕となって必死に視聴者様のご機嫌をとるからこそ、皆が見てくれていることを肝に銘じるべきである。

ビジネスモデルとしてのテレビは、電波に依存していない。エンタテインメント・コンテンツを広告などによる収入により無料でマスに届けさえすれば、ビジネスモデルは成立する。当然IP接続で配信しても、テレビのビジネスモデルで「営業」していれば、それはテレビである。逆に言うと、インタラクティブなコンテンツビジネスでも、無料で提供している限りは、広告があろうとなかろうとそれはテレビモデルであるといえる。

テレビビジネスの当事者が、ここのところをわかっていなかったのは極めて残念と言わざるを得ない。テレビ局のトップでこの点に気付いていたのは、三十数年間業界を見てきた限りでは、1980年代にフジテレビのトップだった鹿内Jr.だけである。彼は明らかにこの構図を見切っており、「電波はいらない、コンテンツで勝負する」と語っていた。それは彼が製作現場上がりではない純粋な経営者であり、「放送」に対する妙な思い入れがなかったからであろう。

その分、業界内では大変嫌われていたし、社内でも異端視されていた。その後のフジテレビの「王政復古」と、それに伴う「低迷」が、なによりも守旧派の間違いを示している。他の局は、もはや何をか況やである。少なくとも1996年のマードックと孫和義氏によるテレビ朝日株の買い占めなどが起こった90年代にこの事実を受け入れ、舵を切っていれば圧倒的な優位は揺るがなかっただろう。

少なくとも筆者はまだ「ニューメディア・ブーム」が広がっていたバブル期から、テレビのビジネスモデルの本質については指摘していた。ファクトとしては充分に認識できる状況にあったことは確かであり、これについては認識や理解力の問題ではなく、「そうであっても、そうは思いたくない」という願望が強く前面に出てきてしまった結果であろうと考えられる。

新聞にはマーケティングがなかった。顧客をきちんと見ることがないからこそ、新聞社の人間は購読者より自分達の方が優れていると錯覚し、購読者を「啓蒙」しようという誤った発想から抜け出ることが出来なかった。その結果、今のような悲惨な状況をもたらした。その点、テレビはバラエティーや娯楽番組で培った、「視聴者にウケる」ことを重視し実践できる体質がある。

それこそが救いである。テレビならではの、「おバカで楽しいニュース」というのも構成・演出できるはずである。民放も折角5系列あるのだから、横並びではなくどこか抜け駆け的にやってしまえばいいではないか。最近の番組制作のリサーチャーは、ネタ探しにSNSとか見まくっているようだが、それならどういうノリがウケているのか充分にわかっているだろう。あとはやるだけ。やれば大当たりするのは間違いないのだが。


(19/01/11)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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