日本復活のカギ





この数年、日産自動車、スバル、神戸製鋼所、三菱マテリアル、カヤバなど、日本のメーカーの中でも世界的に知られている大企業で、検査の不正や偽装など、不祥事が相次いだ。これらの事件を分析すると、けっして現場の「出来心」でやってしまったものではなく、構造的問題から組織ぐるみでやってしまったものであることがわかる。ある意味これは氷山の一角で、発見されていない同種の事件は、まだまだ埋もれているのだろう。

このような事件に対して、最近の社員の勤務態度の劣化を原因と捉える向きもあったようだが、調べてみるとこれらの不正は3〜40年前、少なくともバブルに踊っていた昭和の頃には起こっていたことが判明している。別に昨日今日の話ではない。「ジャパン・アズ・No1」などどおだてられ、わが世の春を謳歌していた頃にまで遡る、長い歴史を持つ日本メーカーの「伝統」であることは確かだ。

そういう意味では、こちらの「ゴマかし体質」の方が日本企業・日本組織の本質であり、それまではそれを防ぐような何らかのメカニズムが働いていたものが、日本が高度成長を遂げて豊かな社会になるとそのタガが外れて本性が顕わになってきた、と捉えるべき構造である。昭和30年代ぐらいまでの日本社会・日本組織にあった楔が、経済の発展とそれによってもたらされた「自信」によりユルユルになり抜けてしまったのだ。

この問題を理解するには、このような視点から、それ以前の江戸時代の社会、それも庶民の意識を調べてみる必要がありそうだ。この時代の庶民の心理を表した言葉としては、「旅の恥はかき捨て」「鬼のいぬ間の洗濯」というものがある。周囲の目、お上の目が光っている間は、緊張して佇まいを正すが、そのような視線が消え、廻りが同種の仲間だけになると、チェックが働かなくなるので、「さあ、羽目を外そうぜ」となることを如実に表している。

つまり、日本の庶民は基本的には「ゴマかして楽をしよう」と、手を抜けるチャンスを虎視眈々と狙っている。とはいえ、周囲の目、お上の目が光っている間は、「李下に冠を正さず」とばかりに、背筋を伸ばして謹厳実直を装う。だから、ひとたびそのような視線が消えると、ここぞとばかりに好き勝手な無礼講になるのである。これを江戸時代からやっていたし、江戸時代はオフィシャルなところでは、そのような問題が起きないように「五人組」制度で連帯責任を課したのだ。

明治以降も、この考え方は引き続き継続された。とはいえお上は明治になっても人員と予算が不足しているので、時々「見せしめ」のための人身御供を摘発することで対応し、主として庶民間での「相互監視」の方を活用して、不正を防いできた。その一方で、明治以降1960年代の高度成長期までは、戦時末から終戦後の経済低迷を除いて、経済成長が続いてきた。貧しかった日本の庶民にとっては、この金の魅力は大きかった。

このため、「旅の恥はかき捨て」「鬼のいぬ間の洗濯」の無礼講で気を晴らすより、ちょっとは従順な態度を示して「経済成長の金の魅力」にありついた方がおいしいという気風が広まった。相互監視の機能と、経済的メリット。この合わせ技により約100年間、本来不正やごまかしが大好きな日本の庶民も、従順でマジメな態度を示してきたのである。それは外的条件が合ってしまっただけで、決して本質が変わったわけではない。

そして、日本が豊かで安定した社会になると、もはや「従順にして、ちょっとおいしい目に会おう」という魅力は失われてしまった。その一方で国民全体の高学歴化・均質化が進むことで「上から目線」が成り立たなくなり、「権威による監視」という構造が作れなくなった。「バレなきゃ何をやってもいい」という気風は、偏差値で成り上がった秀才ほど顕著に見られる傾向になった。

そう、この問題は日本の庶民が変質したのではなく、彼等をマジメに働かせるために欠かせない「監視する重し」が失われたままになってしまったからなのだ。それであれば日本社会の再生は簡単だ。監視機構を復活すればいい。よく、権力者が監視することを忌避する向きがあるが、それは必要ない。大事なのは相互監視である。隣人が互いに相手が何をしているか、ITを使って秘密ができないようにすればそれでいい。これができれば、日本復活間違いない。


(19/01/18)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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