お上は所詮「必要悪」





中国の歴史を見てゆくと、庶民がお上に何も期待せず何も頼らない中で、数々の王朝が盛衰を繰り返してきたことがよくわかる。古くから「上に政策あれば下に対策あり」と言われるように、権力と庶民とは、互いに相互不信の極みである。全く信じていないし、頼ろうとも思わない。これは現代中国でも全く同じである。しかし、それでも社会は動くし、歴史は進んでゆく。「忠誠心」などと言うのは、そんなものである。

庶民は、基本的に「お上」に対する忠誠心は持っていない。そんなことは「お上」の方でも重々承知している。とはいえ、「お上」の権威や威光を利用すると便利な時だけは、面従腹背で忠誠心があるふりをする。ポイントはここにある、「お上」への絶対的な忠誠心はないが、表面的な忠誠心を示す瞬間だけは言うことを聞く。これを利用して、刹那的な関係を結ぶのである。

毛沢東の紅軍は、長征の途中で飢えた農民に食料を与えることで、支持者を増やしていったというのは有名な話だが、このやり方は中国4000年の歴史の中でずっと繰り返されてきた、庶民への懐柔策である。三国志の時代から、中国の戦争は(中原での戦争で、夷敵との戦争は別)ドンパチやったり血を流したり無駄なエネルギーを使わないのは、中国の古典に詳しい人ならよく知っていることと思われる。

兵隊自身に軍隊や将軍に対する忠誠心が全くないので、軍隊と言っても組織としてのまとまりがあるわけではない。戦う前に寝返らせてしまえば、実に効率のいい勝ち方になる。ということで、中国の歴史においては戦争の主役は、軍楽隊と炊事兵である。ニギやかにブンチャカブンチャカお祭りをやり、美味しそうな食事の匂いがして来れば、そっちの軍に兵隊はみんななびいてしまう。兵隊を全部寝返れさせれば、これが勝ちである。

ある意味組織と個人の関係は、こちらの方がグローバルスタンダードである。日本のように、メンバーが組織に対して高い忠誠心を持つと同時に、組織もメンバーを裏切らないという関係性の方が珍しい。ある意味、平和で能天気だから成り立つ、極めてご都合主義的な関係性である。日本がどのような分野でもグローバル化する上で多くの困難があるのは、こういう関係性が日本の中でしか通用しないからである。

会社との関係性も同じである。給料をもらっている分、最低限のモラールを示す必要はあるが、それ以上の「出血サービス」をする必要はどこにもない。いかに忠誠心を示したところで、会社自体が潰れてしまっては元も子もないからだ。そして社員と組織の甘え合いを許すような会社は、ハイコスト体質になりすぎて、今の時代生き残っていくことが難しくなっている。甘えを許す会社は、生き残ることが難しい。

筆者が学生の頃、理系の電気・電子や情報系でもアグレッシブで先鋭的な環境が苦手な人は、かなりの確立で東芝を選んだ。当時のリクルート環境では「サザエさんの東芝」と呼ばれ、アットホームでほんわかした雰囲気が、(技術的レベルの高低はさておいて)あまりやる気のない技術者には非常に居心地のいい会社と映ったのだ。その結果30年後に起こったのが東芝の破綻である。

まあ「ゆで蛙」ではないが、それで何とか廻っている間は、甘え合いが好きな人はその環境に浸っていればいいだろう。自力で頑張っている人の足を引っ張りさえしなければ、勝手にやってくれというところだ。しかし、そんな桃源郷はほとんどなくなっている。そのわりに、働く方の意識がまだまだ組織と社員のもたれ合い・甘え合いから抜け出していないのが現状である。

別に就職したからといって、何を守ってくれるわけじゃないし、甘えさせてくれるわけじゃない。自分の身を守るのは自分だけである。嫌になったらすぐヤメりゃいいし、文句があるならNoと言えばいい。そのご機嫌取りまで会社や組織に期待するというのはお門違いだ。自分で決めれば、何も恐くない。日本の競争力を奪うもの、それは未だに蔓延する「甘えへの期待」に他ならない。


(19/02/08)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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