人間の可能性





80年代には「技術立国」などと大言壮語していた日本のハイテク技術は、30年も持たずにその化けの皮が剥がれてしまった。その理由は明確である。先進国に「追い付き、追い越せ」をスローガンに、高度成長を爆進してきた昭和の日本。キャッチアップを急いだあまり、先進国をベンチマークして「追い付く」ことだけが目的となり、追い付いてからの独自性をどう出すかという戦略について、全く無頓着になってしまったからだ。

最も効率的にキャッチアップするには、先進技術を学び、それを身に付けて模倣することで自分のものとすることが一番効率的である。このため技術者になるための学習やプロセスは、「先進事例をたくさん覚えて身に付ける」ことに終始するようになった。このため何か問題が起こった時も、自分で考えたり発見したりするより前に、最適な事例や応用できるケースを探すのが基本動作となってしまった。

日本の技術がダメになった理由は、技術者にしみ込んだこの習性にある。真の技術大国であるアメリカと比べても、一人一人で見てゆけば、才能やアイディアというようないわば底力のレベルでは多分それほど変わらない。実際事例の数こそ少ないが、技術ベンチャーで成功した企業家の個人的資質は、日米でそんなに差はない。だから、出来る人は出来るのである。

なにか新しいアイディアを持っていたとしても、それを具体的なプランに移そうとする時、多くの技術者は似たような事例や参考になる事例を探すところから始める。それは「自分で考えずマネできるネタを探す」という行動様式が染みついているためだ。こういう後ろ向きの発想からスタートしたのでは、イノベーションは生まれてこない。それを示す有名なソニーの事例がある。

ソニーの経営者だった井深大氏・盛田昭夫氏は自らも優秀な技術者だったため、日本の技術者の持っているこの発想の問題をよく理解していた。そのため新製品開発を行う時には、担当の技術者に「大きさを半分にしろ」とか「コストを1/3にしろ」とか、今までの技術の改良と組合せでは絶対に達成できない目標を掲げた。こうすると技術者はイヤでも新しい技術を開発なくては、ソリューションをもたらすことはできなくなる。

欧米の技術者は、帰納的な発想をする。まずゴールを決め、そこに到達するにはどうやればいいかを自分で工夫して考え出す。そこに至る道筋が決まったのちに、その部分部分で過去に利用できる事例がないかを探し出す。逆に日本の技術者は、演繹的に現在ある技術の組合せでどこまで新しいことが出来るかを検討し、そこにゴールを定める。すでに熟成された技術の組み合わせで新幹線を作ったプロジェクトが典型的だ。

もちろん技術に関する教育という面ではほぼ変わらないのだが、そこで得た知識やノウハウと向き合うスタンスが完全に逆である。そして世界は情報社会になると共に、AIの時代を迎えている。演繹的発想では、AIを越えることはできない。いや、簡単に負けてしまう。AIは、人間が扱えないような大量のデータを高速で「演繹的」に処理するところに特徴があるからだ。

だからこそ帰納的発想で行けば、人間の側に大いに勝ち目がある。帰納的で先に結論を出したとしても、その結論自体が月並みなものであったら論外だが、誰も見たことのないようなとんでもない結論が閃いたなら、その時点でもう勝ちである。まさにクリエイティビティーの本質はここにある。誰も見たことのないような、斬新でスケールの大きな夢。これを描けるかどうかが人間の価値である。

そういう意味では、今までの「日本の教育」は全く意味がなくなる。私は音楽のことしかしかわからないが、自分らしい音楽を表現するためには「トレーニング」と「リハ」は必要であるが、「練習」はほとんど意味がない。練習はいくらやったところで、決まったメニューを決まったようにこなす「予定調和」にしか対応できないからだ。これは多分グローバルレベルのスポーツでも同じであろう。

教育は幻想、努力も幻想。頑張って汗をかいて、ナチュラルハイになっているだけである。その後の「ビールの一杯」は旨くなるかもしれないが、自分の成長には何ももたらさない。それは産業社会の「規格化」がもたらした蜃気楼である。人間にあるのは天賦の才能のみ。その才能を活かすための努力や、才能を拡げるための教育はあるかもしれないが、凡才がいくら努力してもAIには勝てない

日本の近代は、そういう道を美化して目指すからおかしくなった。自分の才能を知り(それが金にはならないかもしれないが)、それを伸ばせばいい。そういえばぼくの友人に、空を飛んでいる蠅を箸で捉まえられるヤツがいた。これはスゴい才能だ。誰にもマネできない。しかし、余り金にはなりそうにない。とはいえ、自分にしかできないことを極めることが大事なのだ。それが何かはわからないが、そこに賭けるしか自分の立つ瀬はない。


(19/02/15)

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