心の襞




世の中が産業社会的なスキームから情報社会的なスキームに変化することで、20世紀の「常識」は21世紀も20年近く経過した今ではすっかり通用しなくなってしまったものが多い。たとえばエンタテインメントの世界では、産業社会の段階では動員数や売上といった「大きさ」で評価されるものだった。しかし、今ではメディアを通した1000万人が支持することより、目の前の一人が感動することの方が大きいし重要視されている。

ビジネスと考えれば、確かに大きい金が動き高い収益性を持つことは重要である。しかし良く考えれば、ビジネスとしての効率性の高さとエンタテインメント・コンテンツとしてのクォリティーの高さは全く別の次元の話だ。もっとも箸にも棒にも引っかからないクソ・コンテンツは商業的にも成功することはないというローエンドの世界においては、この両者は全く関係ないわけではないが、ハイエンドでは別物である。

もちろんビートルズのアルバムのように、この両者を共に高い次元でクリアしたコンテンツもないわけではない。だがそれは結果論である。狙うのであれば、ビジネスとしての成功の方が狙いやすい。いわゆる「芸能界」のビジネスがその典型であろう。質はさておき、確実に金になることを狙う戦略だ。ハリウッドで過去の吊作のリメイクや続編が多くなり、それらがそこそこ当ったことからもわかるように、この領域に関しては創造性は余り問われない。

ここに問題が潜んでいる。過去のヒットに学び、そこからヒントを得て「新作」を作ることは、情報社会となった今では、AIとビッグデータがあれば機械が人間以上にスマートにこなせる世界である。そういう「職人芸」を持っていれば、ヒットの分け前に預かっておいしい思いができる時代は終わりになる。その代り、本当に目の前の観客を感動させられる才能を持っているアーティストは、より高く評価される。今まで何度も言ってきたが、さらば「職人」よ、これからは「天才」の時代なのだ。

エンタテインメントに限らず、スケールを追い求めるビッグビジネスは、高度に情報社会化した環境の元では、ある意味コンピュータ・システムで補完されてしまうのだ。すなわち、大量生産・大量消費という産業社会的スキームはなくなることはないものの、人間の組織が対応する「仕事」ではなくなり、情報システムにより置き換えられたということに他ならない。ちょうど、大量生産する「工場」自体が、19世紀までの人出による作業を機械が置き換えていったように。

大量生産・大量販売でない、新しい価値を生み出し、それがわかる人、それを求める人にだけ提供するというスキームは、情報社会ならではのものである。マーケットの構造は、顧客の心の襞に訴える高付加価値の手作り的な商品と、必要にして充分なコモディティーをハイ・コストパフォーマンスで提供するマス商品とに二分化されるであろう。もちろん、前者は人間にしか作ることができないが、後者は商品企画から生産計画まで、全てAIのコンピュータ仕掛で処理することになる。

ある意味、消費生活においてもコンピュータ以上、コンピュータ以下がはっきりする時代だと言える。人間には心の襞があり、それが同じ刺激を繰り返して受けると、感覚がサチって麻痺してしまうという習性がある。麻痺した感覚に訴える部分は、コンピュータでも対応できる。その一方で、未だ経験したことのない「新鮮な刺激」を生み出す能力は、人間の中でも飛び抜けた才能を持つ少数の人しか持っていない。

こうなると、20世紀に広く信じられていた「数が多いことが正義」という理念が成り立たなくなる。こういう考えかたが広まったのは、産業社会においては、より多くの者から支持された選択が、結果として全体としての満足度の総和を極大化したからである。だがそれが成り立ったのは、経済が成長中で「失うもののない人」の方が圧倒的に多い、いわば「まだ貧しさを抱えている」社会に限られる。

安定成長になり、誰もが「失うもの」を抱えるようになると、この「多くの支持=良いモノ」という構図は崩れてしまう。たとえばカップ麵が嫌いな人は少ないだろう。普段あまり食べていない人も、時として非常に食べたくなる時があるのではないか。そのくらい幅広い人々から支持されている。「数の原理」で言えば、支持者が多く、全世界で最も多く食べられているカップ麵こそが民主主義的な意味での「最高の料理」となるはずである。

ところが、カップ麵が嫌いな人は少ないが、一番好きな料理である人はほとんどいない。このため、カップ麵によってもたらされる幸せ度や満足度はけっこうポイントが低くなってしまう。結果、数こそ圧倒的ではあるものの、カップ麵は「最高の料理」とはならないのだ。数で選べば世界一の料理になるであろうカップ麵をみんなが食べるよりは、それぞれの人が好きなものを選んだ方が、全体としての満足度の総和は余程高くなる。

これは、豊かな情報社会の特徴である。こう考えると、民主主義も産業社会の特質に根差した政治システムであった。ある程度貧しく失うものがない人が多い段階で、質はともかく量的にみんな平等に分け前に預かろうというのが、民主主義の本質である。量より質が問われる時代になると、民主主義が機能しなくなることは目に見えている。情報社会、特にAIの普及が、民主主義に引導を渡すのである。


(19/02/22)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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