心の闇





人間というのは因果なものである。とかく、隣の芝は青く見える。そして、相手を妬む。端から見れば「どんぐりの背比べ」のほとんど差がない状況ほど、その些細な差に執拗に拘り、その序列が天と地ほどの差であるかのように思い込みがちになる。考えてみれば世の中の差別やイジメも、そのモチベーションのほとんどはこの「些細な差のことさらな強調」に起因している。とにかく自分が「ギリギリボーダーラインより上」にいることを確認しないと気が落ち着かないのだ。

その一方で、どうやっても足元にも及ばないような「生まれながらの差」があるものに対しては、妬んだり恨んだりすることは少ない。天才的なモノは仕方がないというのは誰でもわかっているし、あきらめがつく。だから活躍したからといって、腹が立つこともない。逆に、羽生結弦選手や大阪なおみ選手の世界戦での活躍、藤井聡太七段の快進撃などのように、イジメや差別をする側に廻りがちなミーハーな人ほどあっさりファンになり、熱烈に応援したりしてしまう。

反対に、自分でもできそうなことや、頑張ってやればできたことで差を付けられると、無性に腹を立てることになる。その結果、文句を付けたり、足を引っ張ったり、はたまた「説教」という名のグチをタレることになる。あくまでも結果は自己責任であり、やらなかったこと、やろうとしなかったことは、本人の責任である。しかし、こういう人達はすぐ社会や他人に甘えるので、なんとか他人に罪を押し付けようとするからこういう行動をとる。ここに心の闇が生まれることになる。

他人に先駆けて自分からどんどん新しいことをやる人は、決して他人に文句を付けたり、足を引っ張ったり、「説教」をすることはない。自分も勝手にやるから、あなたも勝手にやったら、というスタンスだからだ。やりたきゃやればいいし、やりたくなければやらなければいい。すべては本人の自由。但し、そこから生じる結果とその責任についてはきちんと甘んじるように。実はこれで行く限り、みんな好きにできてハッピーに終わるはずである。とはいえそういう人は少数派である。

多数派が「足を引っ張りたい」人たちである以上、学校でもコミュニティーでも会社でも、基本的に日本人の集団にはイジメや差別が付いて回る。それは、自分で努力して苦労するのを避け、組織の中に埋没して、組織に甘えて楽をしたいと願っている人が多いからである。埋没している人の間で「差」ができることは、組織に埋没できなくなることを意味し、甘えが許されなくなってしまうことを本能的に理解している。だから、足を引っ張ったり、「説教」したり、果てはイジメたり差別したりするのだ。

これはある意味本性の問題であり、変えたり直したりすることは不可能である。いつも言っているように、こういう性癖を持っていることを前提にして、いかに問題の少ない組織や社会を構築していくかという発想にならなくては、一向に改善しない。ここで着目すべきは、こういう「社会に甘えたがる」人達は、天才的な人達は自分とは違う集団だと考えている点である。「生まれながらに違う人達」に対しては、彼等は決して足を引っ張らないし、仲間とは思わないだろうがその分イジメも差別もしない。

解決策はここである。ピッチの中に入る「プレイヤーとしての天才」と、スタンドから見ている「観客としてのその他大勢」とを別の階級として分けてしまえばいいのだ。互いに存在はわかるものの、住んでいる世界は異なる。それなら、平和に共存できるし、甘えあっていたい人は、いくらでも甘えあうことができる。その一方で、才能とチャンスに恵まれた人は、自由に可能性を拡大することができる。

天才が能力を発揮することにより社会全体の経済力が高まれば、「その他大勢」の皆さんにもそのおこぼれの幾許かが零れ落ちてくることになる。これこそ21世紀の情報社会型の社会のあるべき姿である。まさにこれこそ「能力に応じて働き、働きに応じて受け取る」社会。情報社会的な「公平さ」とはこれである、これを不公平だと思うのは、やはり努力でなんとかなりそうな「秀才」がちやほやされてきた近代産業社会の弊害といわざるを得ないだろう。


(19/03/01)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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