真の多様性





民主主義という制度は、産業社会の時代においては極めて適合性の高い政治システムであった。産業社会の時代に入ると共にその生産力をバックに経済成長が進んだため、大衆の生活レベルが上がって大衆社会化が進展し、マスである大衆こそが社会の中心となった。経済や文化においても、一部の上流階級や富裕階級のパトロネージュではなく、大衆マーケットがその経済的な基盤となった。

その一方で社会の情報化はまだ進んでいなかったため、民意の把握・反映という面ではスマートな解決法がなかった。ここで「大衆のパワー=数のパワー」であることに着目し、多数決の論理により「マスのヴォリュームゾーンの民意」を捉まえ、それに基づいて政治を運営する「民主主義」が生まれた。このように民主主義はマス・マーケティングと車の両輪のような双子の関係にある。

それはこの両者が、第一次大戦後の好景気により世界の中心がヨーロッパからアメリカ合衆国に移った1920年代、ローリングトゥエンティーの繁栄を謳歌する米国でまず確立したことが何よりも如実に示している。この時代は、消費マーケットでも政治においても、数こそが正義だった。そこでは必ずしも多様性は重視されなかったが、経済成長が続く中、そこに現れる「違い」は「金」で解決することで問題を回避していた。

この時代において「数の論理」が用いられたのは、生産力の増大ほどには情報処理力は増大せず人海戦術で対応するしかなかったため、多様なニーズに対応して全体の最適化を図ることが難しく、マス・マーケティングと同じように「ひとまず一番数が多いところに合わせておけば、納得してもらえる相手が極大化できる」という、「よりましな解決」を狙ったためである。

21世紀に入り、人類社会は産業社会の段階を脱し、高度に情報化した情報社会に突入した。ここでは情報処理技術の進歩により、多様なニーズを吸い上げて対応し、「真の最適化」により近づくことが可能になる。マーケティングにおいても、数の論理から多様なニーズへの対応により、「規模は小さいがより付加価値の高い多数のマーケット」に適応することが可能になった。そしてその方が全体としての付加価値も極大化する。

これと同じことが、情報社会における政治システムに対しても言える。全体の大きな集団に対して共通の政策を行い、マジョリティーの人が満足できることを目指すのではなく、全体を利害や志向ごとの小さな集団に細分化し、それぞれに対して最適化した政策を実施することができるようになったのである。すなわち、多様性の確保とは産業社会的な民主主義をやめ情報社会に特化した政治システムを採用することで、はじめて担保される。

その理念は多数決の論理をやめて、違う意見の人とは顔を合わさずに済みようにすることにある。多数決の論理に従う限り、価値観の軸は一つしかない。ここから生まれるものがファシズムである。そういう意味では、ナチスドイツは最も「民主的」な社会であった。誰もが史上最も民主的と認めるワイマール共和国のスキームが直接的に生み出したのが、ナチスドイツのファシズムなのだ。

もし第一次大戦後のドイツに皇帝がいれば、ヒトラーは登場できなかっただろう。皇帝の元では、多数派も少数派もないからだ。多数決だったからこそ、大多数のドイツ人から嫌われ、憎まれていたユダヤ人は虐殺された。多数決でいく限りは、一神教と同じで少数派が自主独立でいられる可能性は少ない。存在を認められたとしても、「多数派の庇護の下」でしかない。ダイバーシティーを求めるなら、民主主義はやめるべきだ。多数決をやめて、少数自決のスキームを作ることが大切なのだ。

これはまた、小さい政府の構築とも繋がる。多くの小さな集団になれば、コミュニティーのように自主的な組織運営が可能だし、セルフヘルプで問題解決することが可能になる。巨大な官僚組織・行政組織は必要なくなる。多くの税金を投入している課題さえ「講」のように互助的な仕組みの中で解決することが可能だし、福祉も余裕のある人が余裕のない人にチャンスを与えたり手を差し伸べたりすれば、公的組織はいらない。

このような政治システムを採るのであれば、必然的に「国」とは外交と防衛だけを行う組織となり、「小さな政府」が自動的に達成できる。もとを正せば肥大した官僚機構も、情報化が進んでいない段階の社会では情報処理を人海戦術で行っていたため、処理すべき情報の量が増加するに比例して、組織も肥大してしまわざるを得なかったから起こった現象である。機械で処理できれば、大きな組織はいらない。官庁では情報化が遅れ、非効率的な事務処理が今も続いていることがそれを如実に示している。

こういう社会を実現するには、リバタリアニズムが浸透することが一番である。自分に迷惑がかかる場合はさておき、他人が何しようと、自分に関係ない分には他人の行動に反対するな。みんな勝手にやればいいのだ。他人の行動に対し、反対したり差し止たりするというのは、結局自分の意見を押し付けたいだけである。みんな自分の世界の中だけで、自分の好きなようにやればいいのだ。

その一方で自分が一人で生きて行けないのなら、その時点で自分の意見は言わないようにすべきだ。誰かについていくしかないのだから、いちばんよさそうな相手を見つけてその意見に従え。自分が自分の尻を拭けない以上、偉そうなことはいうな。桃太郎にはなれないのだから、犬猿雉になれ。それだって立派な生き方ではないか。民主主義の悪影響で、誰もが同じ発言権を持っていると思い上がるからおかしなことになる。

一人で生きていける人なら、他人に迷惑を掛けないように、自分だけの世界を作り、その中で生きて行けばいい。そもそも自立した個人というのはそういうものなのだ。その上で、自立した人間同士が互いに協力したりコラボしたりできるところを見つけ、その範囲で協働してゆけばよいのだ。本当の多様性とは、誰かに多様性を保障してもらって生まれるものではなく、その社会を構成するメンバー一人一人が、自分の足で立って自立することではじめて実現できるものなのだ。


(19/03/15)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる