イマジネーションの壁





アニメやコミックスという意味ではなく、2次元空間の中に生息している生物があるとする。この生物にとっては、3次元空間の中に存在している物体の全体像を捉えたり理解したりすることは基本的にはできない。自分の所属ている空間の次元数しか理解するための軸を持っていないので、捉えようにも捉えられないのである。このように低次元の空間からは、より高次元の空間は本来見ることができないのである。

数学的には、より高次元な空間な存在からはより低次元な空間の事象は簡単に理解できることは理解しやすい。3次元空間に生息する我々が、2次元空間や1次元空間の事象を容易に理解できるのはそれゆえだ。「逆は真ならず」であり、より高次元の空間に存在する物体を、より低次元の空間の中から把握することは非常に困難である。しかし、それは絶対的に不可能ということではない。

それは、写像というものが存在するからだ。3次元に存在する物体であっても、それがある2次元空間と交差する時には、2次元空間の中に何らかの形が現れる。もっとも単純な場合を考えるには、3次元空間の3軸に相当する変数xyzの内、たとえばz=0と代入してしまえばよい。この場合あるxyzの関数として表される3次元の物体が、xy2軸の平面に投影する2次元の写像となる。

こう考えてゆくと、そこに「何か得体のしれない物体」があることと、ある2次元空間上にそれがどういう写像を生み出すのかは、2次元空間の生物でも理解できることがわかる。これを利用したものが、CADができるまで工業生産にはつきものだった「三面図」である。図面という2次元空間上の画像情報で3次元の物体を記述する。これこそまさに、今述べた「写像」を利用して記述しているのである。

三面図とは、正面図、側面図、平面図の3つの図面を組み合わせることで、立体的な物体の詳細を、紙という2次元空間の中で表現する手法である。まさにx=0、y=0、z=0という、3つの2次元空間への写像を一枚の図としてまとめることで、3次元の物体を2次元空間の中で表現することができる。我々は3次元空間の中に住んでいるので、三面図を立体に再生することは容易だが、2次元空間に住む生物も、この手法を使えば3次元の物体を把握することが不可能ではない。

同様に考えてゆくと、3次元空間の我々が、数学的な4次元空間を想像し理解することは決して不可能ではない。3次元空間の物体を、「三面図」という技法で2次元空間内に表現できることを考えれば、4次元区間の物体を、いわば「四立体」ともいえるような手法により3次元空間内で表現できることがわかるだろう。これを駆使すれば、我々も4次元空間に存在する物体を把握することは可能である。

数学的な4次元空間とは、w、x、y、zと4軸ある空間である。その中でwxyzの関数で表される物体。その関数の各軸を0にしたときには、3次元の立体が現れる。ちょうど、3次元の物体の2次元平面への写像のように。ここでたとえばある4次元空間の物体が、w=0なら直方体、x=0なら円柱、y=0なら球、z=0なら三角錐して3次元空間に表われたとする。そういう物体を思い浮かべられれば、4次元空間の存在感は理解できることになる。

しかしこれは簡単ではない。かなり特殊技能を必要とする。だが、これを思い浮かべるためには、いくつかの方法がある。数学者というのは、数式を元に脳内でこれができる人である。そもそも目の付けどころや理解のプロセス自体からして特殊で、一般の人とはかなり違うのだが、こういう観念的な世界観を具体化できるという意味では、その能力は類まれな威力を発揮する。

一方、こういう存在をイメージとして想像できる人もいる。これはある種のデザインセンスということもできる。こういう人は「シュレディンガーの猫」の存在を、イマジネーションの中で描いたりすることも得意である。ぼくはどちらかというとこっちのタイプなで高次元空間をイメージするタイプである。そんなワケなので、、意外とゴリゴリの数学者とも話が合ったりする。

とはいえ、酒席でこういう話をしているところを他人が端から聞いていたら、相当に「アブない人」と思われてしまうのが関の山であろうが。やはりこういう話は、分かる人だけのクローズドな空間で語り合うべき内容であろう。話は違うが、80年代〜90年代の「おたく冬の時期(この時期はまだひらがな「おたく」)のマニアックな会話もそんな感じであった。そういう意味では、数学とおたくは親和性が高い。

「世の中はこういうものだ」ではなく、「こういう世界があったどうだろう」という視点から、ある世界観を描けてしまうかどうか。これこそがイマジネーションの豊富さである。「シュレディンガーの猫」でも現実の生きている猫と死んでいる猫から考えるのではなく、確率的に「1/2生きていて、1/2死んでいる」猫とはどういう世界でどのように生きているのか、イメージを創り出せばいいのである。

まさに秀才のような「現実に見えているものだけから、演繹的にモノを考える」人にはこのような作業は不可能だ。その一方で、「この世に無いモノを想像の中に創り出して、帰納的にモノを考える」ことができる天才なら、こんなことはいつでもやっている発想法である。情報エントロピー理論的に考えると、両者はまったく異なる構造であることがわかる。

この違いがわかって、頭の中にイメージを浮かべられる人は、AI時代にマシンを使いこなして、さらに大きな可能性を獲得できる「コンピュータの上」の人である。ここで何を言っているのかさっぱりわからない人は、残念ながら「コンピュータの下」の人となってしまう。そうバカの壁ではないが、イマジネーションにもやはり壁があるのだ。そして、その壁こそが、これからの時代の天と地を分ける越えられない壁となるのだ。


(19/03/22)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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