批判は卑怯





この十年ほどで、20世紀においてはそれなりに存在感のあった「ジャーナリズム」「リベラル」「革新系野党」といった人達の化けの皮が一気に剥がれた。世の中の情報化と価値観の多様化が進んだ中で、彼等にはしっかりした主義主張や理論的バックグラウンドがあるわけではなく「反対のための反対」をし続けていただけということが誰の目にもはっきりわかる「裸の王様」になってしまったからだ。

55年体制の時代においては、時の権力に対して何でも反対していれば、高度成長の経済繁栄をバックに、それなりのバラ撒き政策の恩恵にあずかることができるし、騒いだ方がおとなしくしているよりも「口止め料」とばかりに多少色を付けてバラ撒いてもらえたりもした。このような「条件反射」を繰り返しているうちに、「反対することが目的」という無内容かつ思考停止状態に陥ってしまった。

そこで彼等が持ち出してきた「反対」の理由こそ「批判」である。批判というのは、批評でもないし、対案の提案でもない。一見正当な理屈を展開しているように見えるが、ようは勝手にガン付けしているだけである。昭和のヤクザは、漫才のツッコミの練習よろしく、テレビを見ながらドラマのセリフやCMのキャッチコピーにくってかかってガン付けの練習をしたという。

要は、筋が通っていようがいまいが、何に対しても文句は言えるのだ。「批判」とはその延長である。造反有理ではないが、「ガン付け」に後付けの屁理屈で正当性をこじつけたものが「批判」なのである。そういう意味では、「反対のための反対」に屁理屈の鎧を着せたものが「批判」ということもできる。理屈が付いていたところで、「批判」は「それはイヤだ」「私にも同じようにしてほしい」という感情論でしかない。

このように「批判」という行為は「甘え」に過ぎず、極めて無責任に切れる札なのだ。だからこそ、「批判」は自分がやりたくないことをやらないのを正当化する時にもよく使われる。掃除当番をサボる小学生が、いろいろ愚にもつかない屁理屈の言い訳をしまくるのと全く同じである。そういう意味では、この甘えはガキレベルということもできるような、極めて低次元な対応である。

官僚に代表される秀才エリートも、「批判」が好きな人達としてよく知られる。彼等は自分が努力してレベルアップすることを目指すのではなく、その知識や論理力を駆使して相手を蹴落とすことで自分のポジションをあげようという習性があるからだ。まず自分が傷つく心配のないところに足場を築いた上で、相手を批判することで貶めて自分を正当化する。まさに「批判」は自己保身に走るための手段となっている。

これら「批判」好きな人達には共通することがある。自己責任で自分でリスクを取り、肚をくくって決断し実行するのが嫌なのだ。あるいはそういう行動をとる勇気がないのかもしれない。たとえ相手の行動に対して気にくわない点があったとしても、それは相手の勝手でありつべこべ言ってどうなることではない。相手に不満があるなら、相手はシカトして黙って自分でやればいいだけである。企業家精神に溢れる人々は、みんなそうしている。

ここに「批判」好きな人達の秘密がある。「批判」好きな人は、「甘え・無責任」な皆さんとオーバーラップしている。自分でやらずに相手を「批判」する裏には、相手にやって欲しい、相手からなにか貰いたいという願望があるのだ。やはり問題はそこなのだ。日本の21世紀の足を引っ張るのは、「甘え・無責任」な人達である。もちろん、だからといって彼等を「批判」したりしない。

価値観の多様性は何よりも大切なので、「甘え・無責任」だって構わない。ただ、それを世の中の唯一の価値観と思わずに、自分達の仲間内の価値観だと理解しさえすればいい。「甘え・無責任」な人同士で傷を舐め合っていれば、それはそれで結構なことである。「自立・自己責任」な人が自助努力により成功したことを批判したり、足を引っ張って貶めようとしなければいい。かつて新左翼は闘う相手を失い、仕方ないから内輪で「内ゲバ」を始めた。これと同じで、仲間内でじゃれ合ってくれ。


(19/03/29)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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