21世紀の自由





思想信条の自由は、社会の情報化が進むと共にその意味合いが変化してきた。かつて冷戦の時代においては、思想信条はイデオロギーと密接な関係があるものとして捉えられていた。しかし、産業社会から情報社会へと社会構造が進化すると、イデオロギー的な主張は方便となり、相手とのコミュニケーションに於ける、自分と他人との関係性の問題こそが思想信条の自由の主要な問題となってきた。

思想信条の自由とは、今や思想の内容の問題ではない。その行使の仕方の問題なのだ。そもそも権利とは自助努力で行使するものであり、他人から与えてもらったり認めてもらったりするものではない。他人がいようがいまいが自分が自助努力すれば実現できるものが「人権」なのである。そこで他人が自助努力による権利の行使を妨害したり、足を引っ張ったりすることがあったりしてはならない。

これが「多様性を認める」ことである。多様性を認めるかどうかとは、基本的には他人に自分の意見を押し付けないかどうかにかかっている。ところが、多様性を認めない人、自分の意見を他人に押し付けたがる人に限って、権利を社会とか他人とか、自分以外の自分の回りの存在から与えてもらいたがる。そして自分こそが正義だとして、自分と異なる意見を持つ人間の存在自体を否定しようとする。

こういう人に限って、自分が「人権派」だと主張したがる。これは洋の東西を問わず顕著に見られる傾向である。欧米における反ナチズム運動家は、その内容や方向性に関わりなくナチスに関する議論を力で封じようとする。確かにナチスの行ったユダヤ人に対する蛮行は問題が多いが、だからといってナチス政権下でのドイツ経済の成長に関する議論まで封じてしまうのでは、言論に対する暴力である。

日本における反核運動も同様な傾向があるが、自分達が正義だと思い込んでいる人達ほど、自分と違う意見を圧殺したがる傾向がある。しかし、これこそが最も危険な主張だ。まさに反ナチズムにはナチスと同様の暴力的・排他的傾向が顕著に見られる。ある主張を行う人も、それに真っ向から反対する主張を行う人も、多様性を認めず、自分達だけが正しく相手側は抹殺されるべきだと考えている点においては同じ穴の貉である。

この構造の類似はもしかすると、反ナチズムとはかつてナチスの強力な支持者だった人が、その過去を隠し誤魔化すための隠れ蓑や免罪符として機能しているところからスタートしたのかもしれない。ナチスの持つ構造的な問題をきちんと解明するには、ナチスに関する自由な議論が行われることが前提となる。それを封印してしまったのでは、感情的な意見ばかりが跋扈し、科学的な分析が行えないではないか。

近代ドイツの経済史に詳しい学識者に聞いたことがあるが、ヨーロッパが地続きのドイツは、戦争末期になって制海権を失いサプライチェーンを断たれた日本とは違い、大戦末期になるまでGDPは増大し続けていた。第二次世界大戦がドイツ経済に与えた効果をしっかり把握しなくては、ドイツにとっての戦争の意味を正しく理解することはできないし、ナチス政権が続いた理由もわからなくなってしまう。

本当にナチスの問題点を分析しようとするなら、こういう客観的な状況分析は不可欠である。ナチスは暴力でドイツ人にナチズムを強制したのではなく、多くのドイツ人にとってはナチスの主張が最も納得性が高く、自分達の抱える問題に対して光明を与えてくれるとおもったからこそ、ナチスが政権を獲得した事実を忘れてはならない。しかし、反ナチス主義の人の主張では、こういう学術的な議論さえ封印してしまうのだ。

この典型的な例が、日本の核武装に関する議論である。ファクトに基づきキチンと分析し議論すれば、現時点において核武装するのはメリットよりもデメリットの方が大きく、けっして間尺に合わないことは定量的に証明することができる。実は日本の核武装に反対するのなら、感情的・情緒的な左翼の反核運動ではなく、いかにそれがコストとして成り立たないかを立証した方が早いし、論拠としても強い。

これができないところが左翼・リベラルのあざとさであり、その主張がロジカルな主義主張ではなく、自分達のアイデンティティーを確認するためだけのものであることが見え隠れする。まさに自分の意見を相手に無理強いすることで、自分の存在感を主張したいのだ。他人に自分の意見を押し付け多様な価値観を否定するという意味では、こういう反ナチス主義者や反核運動家は最たるものである。情報社会においては、こういう姿勢がもっとも批判されるべきものである。

ヘイトも同様である。相手に向かって直接非難の言葉を浴びせたり、差別したりするのは意見の押しつけであり言語道断だが、好き嫌いは自由でなくてはいけない。自分が自分の心の中で何をどう思おうと、それを他人に押し付けたり、他人の考え方を批判したり中傷したりしない限りは、他人からどうこう言われる筋合いのものではない。これこそが情報社会における思想信条の自由の本質である。このような多様性の担保こそが、情報社会を反映させる掟なのだ。


(19/04/05)

(c)2019 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


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